新聞が、ない。
2005'01'07(Fri)23:00
新聞がない。これは困る。ひじょ〜〜に困る。いや、所謂地方紙、はあるのだ。昔から地元の新聞も取ってはいた。のだが。全国紙、も併読していたのだ。この全国紙の購読を、父が今年から止めてしまった、のだった。ああ、父よ、確かに2紙取るのは費用が嵩むけれど、でも、でもだなあ、……(涙)。
地方紙、何も悪いとは言わない。ただ単に、私個人にとっては全国紙の、それも文化面が好みであった、だけなのだ。地元紙は基本的にはラ・テ欄しか目を通さないことが多い(ニュウス、というだけならTVで事足りる)。政治経済面にも目を通せよ、と思いつつも、そこは撫でる程度にしか目を通さず、文化面を毎日楽しみにしているのだ。特に、日曜の書評欄。これが毎週楽しみで。ついでに土曜に挟み込まれる「別冊」(これでどの新聞かバレバ〜レ♪)も楽しみにしていた。
書評欄、最近はさほどでもなくなってきたけれど、比較的私好みな本を取り上げてくれることが多かったし、評者も興味深い執筆陣が多かった(ことに、今は高橋源一郎氏も評者のひとりなのでなおさら。高橋氏の着眼点なんかが参考になるし、そもそもその評論文が純粋に面白く感じられるのだ)。ヤングアダルト向けのペエジなんかも月一であったりでナカナカの充実度だったのになあ……。
何故全国紙を捨てて地方紙を選んだか、おそらくは――年明け早々申し訳ないのだが――「訃報欄」のためであろう、と推測している(ウチはあらまほしきコミュニケイションというものが成立しない家庭なので、「何故○○新聞取るのを止めたの?」などと父に問うたりしてはイケナイ。何が彼の機嫌を損ねるのかわかったものではないので、極端な話、会話そのものを避ける)。
両親共に高齢である。当然、彼らが世話になった方々、だの、友人・知人、は、当然の如く高齢者が多い。「天国にリーチがかか」る年齢になってきたわけだ。そうすると、新聞を取っていないことによって気づくのに遅れを取ったりすると、閉鎖的な田舎故に「紫堂んとこはこんな大事なことに気づきもしねえで」だの「こういう付き合い粗末にするたあ何事だ」などと言われかねない。全国紙にも「おくやみ」欄はそりゃあるんだが、喪主が誰で式場は何処で、という子細までは掲載されないのが常。そういう広告はまさに地方紙に依頼し、それ相応の広告を打つ、のがお約束。……新聞取ってない、なんてことは、「あり得ない」(これはその家庭やそれぞれの事情・都合によって違うと思うのですが、ウチに限って言えば、私の父はかつて教員であり、そういった職に就いていた人間が新聞を購読していない、などということは「あり得ない」と思われるのです。ええ、田舎ですから)。見逃して失礼でもあったら、という予防線を張るべく、地方紙を選んだのだ(でも、推察)。
不便は、さほどないといえばない。平生ラ・テ欄があれば困らない程度の私である。しかーし!! 新聞ゆっくり読みたい時、読みたい記事だって、あるんだい!! 何気なく開いた場所から思いがけず情報を得ることだってあるのに。雑誌・新刊の広告だって見たいのに!(いや、地方紙にだって載りますが、「週刊○○」の類は載ってもたとえば「天然生活」の広告は載らないのよ、地方紙なんて!)むきー!!
……ならばおのれのカネで購読せんかい、と思われるだろうが、これをやったらやったで父の沽券に関わるというか、少々よろしくない空気が流れてしまうのだ。ああ、面倒な家だな。
ひとり暮らしの頃ですら、新聞は購読していた。毎月お金飛んだけど、元取ってやる、とばかりに clipping の嵐。本の広告・書評から気になる記事や話題まで、月の終わりには必ず改めてひと月分に目を通してから処分していた。
すべてに、は無理だし不可能だけれど、「情報」はある程度「対価」を支払って手に入れるのが妥当だと思っている。「対価」は必ずしも金銭のことを言うのではない。それは「手間」の時もあれば「時間」のこともある。とりあえず、何だってタダで手に入れよう、というのはムシが良すぎる態度であろう、と思っているのだ、横着で極貧の割に。
新聞を読まないまま七草を迎えてしまった…ありえねえ! 未だかつてこんな正月を迎えてことはないぞー!!(そのくらい、地元紙には興味がない。あ、そうか、ラ・テ欄は見てたんだった。…って、それだけかい↓)
図書館へ行け? そうですねえ、吹雪の中、雪道歩いて一時間、ですか。そこまではちょっと(根性ナシ!!)。
地方紙、何も悪いとは言わない。ただ単に、私個人にとっては全国紙の、それも文化面が好みであった、だけなのだ。地元紙は基本的にはラ・テ欄しか目を通さないことが多い(ニュウス、というだけならTVで事足りる)。政治経済面にも目を通せよ、と思いつつも、そこは撫でる程度にしか目を通さず、文化面を毎日楽しみにしているのだ。特に、日曜の書評欄。これが毎週楽しみで。ついでに土曜に挟み込まれる「別冊」(これでどの新聞かバレバ〜レ♪)も楽しみにしていた。
書評欄、最近はさほどでもなくなってきたけれど、比較的私好みな本を取り上げてくれることが多かったし、評者も興味深い執筆陣が多かった(ことに、今は高橋源一郎氏も評者のひとりなのでなおさら。高橋氏の着眼点なんかが参考になるし、そもそもその評論文が純粋に面白く感じられるのだ)。ヤングアダルト向けのペエジなんかも月一であったりでナカナカの充実度だったのになあ……。
何故全国紙を捨てて地方紙を選んだか、おそらくは――年明け早々申し訳ないのだが――「訃報欄」のためであろう、と推測している(ウチはあらまほしきコミュニケイションというものが成立しない家庭なので、「何故○○新聞取るのを止めたの?」などと父に問うたりしてはイケナイ。何が彼の機嫌を損ねるのかわかったものではないので、極端な話、会話そのものを避ける)。
両親共に高齢である。当然、彼らが世話になった方々、だの、友人・知人、は、当然の如く高齢者が多い。「天国にリーチがかか」る年齢になってきたわけだ。そうすると、新聞を取っていないことによって気づくのに遅れを取ったりすると、閉鎖的な田舎故に「紫堂んとこはこんな大事なことに気づきもしねえで」だの「こういう付き合い粗末にするたあ何事だ」などと言われかねない。全国紙にも「おくやみ」欄はそりゃあるんだが、喪主が誰で式場は何処で、という子細までは掲載されないのが常。そういう広告はまさに地方紙に依頼し、それ相応の広告を打つ、のがお約束。……新聞取ってない、なんてことは、「あり得ない」(これはその家庭やそれぞれの事情・都合によって違うと思うのですが、ウチに限って言えば、私の父はかつて教員であり、そういった職に就いていた人間が新聞を購読していない、などということは「あり得ない」と思われるのです。ええ、田舎ですから)。見逃して失礼でもあったら、という予防線を張るべく、地方紙を選んだのだ(でも、推察)。
不便は、さほどないといえばない。平生ラ・テ欄があれば困らない程度の私である。しかーし!! 新聞ゆっくり読みたい時、読みたい記事だって、あるんだい!! 何気なく開いた場所から思いがけず情報を得ることだってあるのに。雑誌・新刊の広告だって見たいのに!(いや、地方紙にだって載りますが、「週刊○○」の類は載ってもたとえば「天然生活」の広告は載らないのよ、地方紙なんて!)むきー!!
……ならばおのれのカネで購読せんかい、と思われるだろうが、これをやったらやったで父の沽券に関わるというか、少々よろしくない空気が流れてしまうのだ。ああ、面倒な家だな。
ひとり暮らしの頃ですら、新聞は購読していた。毎月お金飛んだけど、元取ってやる、とばかりに clipping の嵐。本の広告・書評から気になる記事や話題まで、月の終わりには必ず改めてひと月分に目を通してから処分していた。
すべてに、は無理だし不可能だけれど、「情報」はある程度「対価」を支払って手に入れるのが妥当だと思っている。「対価」は必ずしも金銭のことを言うのではない。それは「手間」の時もあれば「時間」のこともある。とりあえず、何だってタダで手に入れよう、というのはムシが良すぎる態度であろう、と思っているのだ、横着で極貧の割に。
新聞を読まないまま七草を迎えてしまった…ありえねえ! 未だかつてこんな正月を迎えてことはないぞー!!(そのくらい、地元紙には興味がない。あ、そうか、ラ・テ欄は見てたんだった。…って、それだけかい↓)
図書館へ行け? そうですねえ、吹雪の中、雪道歩いて一時間、ですか。そこまではちょっと(根性ナシ!!)。