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……というタイトルは何だかとても気色悪いな。いかんいかん。

momokoDOLL 仔犬と一緒
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「とうとうメジャー・デビュウ」だったのか。そうか、今までインディーズだったのね。知らなかった……。フツウに量産されてフツウに(とは言っても特定の店なんだけど)売られているのだと思ってた。
今年3月に「メジャー」デビュウを飾るファッション・ドール「momoko」。Amazonで早くも(珍しい! いつもはどこかしらどんくさいというか出遅れがちで・以下略)予約開始となりました。欲しいー!!
そもそもはあれか、在り方としてはVOLKSの「Who's that girl?」みたいなもんか(VOLKSはGK…えーと、ガレージ・キット〈わからない方は検索ヨロシクです。一応ココのぶろぐでも一度解説したことがあったので、ブログ内検索でもイケるかと〉等の立体造形物を制作・販売してる会社で、最近では女性、特に人形者(人形の蒐集やカスタマイズ等を愛するひとのこと)には人気の高い「スーパー・ドルフィー」で知られるようになった会社…だと思ってるんですが、訂正あったらよろしくです。ちなみに、WTG、顔立ちを好みで選べる上に、ちゃんとメゾン〈!〉が存在していて、イメエジで服を選べるという凝りよう。今じゃ男の子のドールまで出て、ちょーイケメン仕様・笑。どなたが原型担当かまだ確認してないけど、ツボを押さえたイイ仕上がりっぷり。サイトで見てみて下さいな。彼らを見てるとバービーのぼーいふれんどのケンの立場なんぞ砂粒ほどもないくらいよ~。こうなるとカレカノで欲しいなあ…)。
ポストペットの開発スタッフが手がけたファッション・ドールで、位置づけとしては「量産アート」らしい。イマドキの服を着せて楽しめる人形が欲しくて、とのこと(簡単な記事はコチラから)。目元が涼しげで、凛とした雰囲気のある顔立ちだけど、ファッションとヘア・スタイルでかなり佇まいが変わる辺りリッパに「オンナ」してるなあ。
どうしよう。ごっつい欲しい。でも、こういうのって一体買うとそのための服が欲しくなって、一体だとサビシイかな、とか思って違うテイストのコが欲しくなって…とオソロシイ無限地獄に突入するのよね、私の場合は↓(WTGも欲しいし。身長差があまりないので服の互換性アリだろうか? でも微妙だな、1センチ差つーのは……)

……未だに子供の頃買ってもらったジェニーだのリカちゃんだのが家にあるクセに(そうだ、高校時代に後輩格の友人から「よかったらどうぞ♪」ってドレスと人形もらったのもある!)。これも浮気だろうか↓(もっとも、所有している、というだけの状態になっていて、最近触れるどころか見てもいないのだが)でもって一昨年あたりアホみたいに安売りされてたバービー3体(今思えば何故赤毛も買わなかったのかと後悔…。ちなみに、ブロンド・ブルネット・ブラック〈やはりアフリカン・アメリカン、と呼ぶべきなのかしら?〉の3体。ああ、そういえばドレス一着買ってやるでもねえ甲斐性ナシの私……許せ、ばび子s。

と、こう振り返ってみると一時の欲望に流されてイケナイ気がしている。でもなー可愛いんだよなあ……(物欲オンナはこうして日々駄目になっていきます)。
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The 15-Minute Gourmet: Vegetarian (15-Minute Gourmet)
Paulette Mitchell
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食べ物の好みに極端にウルサイひととの食事というものは、気疲れするものである。やれ何が嫌い、やれ何が食べられない、好き嫌いだからある程度はしょうがないけれど、何でもかんでも嫌い・食べられない・不味いのひとことで済ませるひととは、正直一緒に食事をするのは苦痛である。お皿の端に寄せられて積まれてゆく食べ物。この皿に上るまでどれほどの手間暇がかかっているのかと思うとおいそれとは残すことすらできぬ恵みの数々。私は実は生のせろりが嫌いなのだが、それでも残すことはない(告白すると、「塩つけてぱくっと! これが一番!」とか「マヨでしゃくしゃく食べちゃう」とか、信じられない・笑。トシ食ったら平気になるものだ! と言い聞かせて食べてみるたびに後悔する。煮込んであるものは平気。というか、カレーとかミート・ソースに入れると絶品だと思う♪ しかしだ。ナマ。……あれ、美味しいですか、そうですか……・涙)。
そこ行くと私は単純というか節操がないとでもいうのか、何でも食べられるので、大抵は文句ひとつ言わずに食べる(昆虫はあと数十年ほど検討させて下さい……)。今までに「不味い」と明確に思ったのは「どう考えてもまだ作り方を満足に教わっていないバイトの高校生の女の子がつくったラーメン」くらいのものだ(ちなみに、それは、箸で麺を引き上げようとしたらざばあ! っとすべての麺がほぼカタマリ状態で飛び出したホラーちっくなシロモノで、正直食材への冒涜だとまで思った。しかし、高校生にもなって、麺をほぐしつつ湯に入れる、くらい知らないもんなのか、お嬢ちゃん……。インスタントの麺だって少しはお箸でほぐしながらつくるでしょ、って、そうか、カップ麺しか食わないのか! ええい、たまには鍋で煮てつくって食えよ! 野菜も忘れるなよ! 宿題やったか? また来週! ←ミゴトにドリフ世代。もとい。正確に言うと、不味い、というのともちょっと違う。だってまず食べ物・料理として存在してないモノと化してたんだもの↓ でも完食。思えば作り直してもらえばよかったんだろうけれども、時間もなかったしで居合わせた全員でぶーたれつつ食べた。ここまでくるとエライのか馬鹿なのか謎である)

そして、その店なら店、家庭なら家庭、流儀というものが御座いましょう、と比較的あるがままを受け入れる。「そうか、ココではコレはこういう味付けね」とか「あ、この家ではコレはこう食べるのが好きなんだ」とか、あっさりと受け入れる。誠に扱いやすい人間である。出されたものは文句ひとつ言わず食べる。美味しければ美味しいと褒め、そうでないものもそれなりにいただく。食べ物とゆーものは感謝していただくものだ、と思っている。まあ、何だか優等生的発言ねえ。卑しいだけじゃね?(真実は時にひとを傷つけるのであまり口に出さぬように)
しかし。その私を少々辟易させたものが、アメリカのホーム・ステイ先にはあったのだった。それは。

くったくたになるまで茹で抜かれた巨大ブロッコリ。

これには参りました。日本において、緑野菜ちうもんは、あの鮮やかさを留める程度にしゃっきりと茹で、水に晒し…なんつーことをして食うのが常ではないかと思うのですが(ポトフとか、煮込み料理はその限りにあらず。当然ですが)、アメリカでも茹でに茹で抜いて食うモノのようです(林望氏の有名なエッセイ「イギリスはおいしい」でイギリスではもれなく野菜をとことん茹で抜いて食べるというエピソオドがあり、それを当時すでに読んでいたのだが、源流を一にするとやはりこういうものであろうかなどとひとりごちた記憶がある)。
温野菜として饗してくれたのだけれど、こう、旨味も栄養分もきっとゆで汁にすべて溶けだしているわねー、コレはその、なんて言うのかしら、……残りカスみたいなもんかしら~…強いて言うなら食物繊維…オウ! ないすあいでーあ! そう思えばいいのか! ……というよりソレ自己欺瞞じゃないかいや明らかに誤魔化してるだろつーか何故こうくったくたになるまで煮るのだ茹でるのだ味がないぞ塩入れて茹でてはあるけど旨味イマイチだから今ひとつ味つーもんがわかんねえなどうしようかねコレとかゆーてる間に食い終わったわ~ってまだ皿に残ってるじゃんさあ食え食うんだそれにしてもでけえだろこれが通常の販売されてる時の一房の何分の一なんだよ――私の意識は遙か宇宙の果てくらいにまでトリップしていると思いねえ。あるいは無我の境地に至ったのか。とにかく無心に食うのであった。
ここで「ねえ、もっとこう、あっさり茹でたほうがいいんじゃなくて?」などというクソ生意気なことはヌカさない。私は世話になっている身分であり、相手はアメリカ人、するりと家の中に入れてくれはするものの、家族しか入れぬような部屋にまで入れるまでが長いという、イギリス人とは正反対の人々に、そんな大それたことをヌカせるほどの度胸はない。……まあ、日本に居ても言わないなあ。余程親しくて軽口も言い合えるくらいの仲じゃないと。「自分の思うところは主張すべきだ」、ということと、「何言ってもいい」、つーのも別ですし。ええ。
しかし。しかしなのだ。何故そうまでして茹で抜く~~~? ヴィタミンが壊れるどころか完膚無きまでに叩きのめされて後さらに石抱きの刑に処せられているくらい徹底しとるぞ。コレが「いつも」で「フツウ」だから、疑問を抱かないんでしょうね。私が「野菜は(ものにも料理にもよるけれど)しゃっきり茹でるもの」と思ってしまっているのと同じように。

日本人ならホーム・ステイなんかで受け入れすると、毎日何を食べさせたらいいかしら、なんて悩むところかもしれないけれど、向こうの方は「いつもの私たちの生活」をそのまま提供してくれるので、トクベツなことは一切しません(私のお世話になった家庭はそうでした。でもって、ヨソにお世話になった子が、「毎朝同じようなのばっか食べさせられて飽きちゃう」とコボしていたので、もしかするとどこもそうだったかもしれないけれど)。なので、たびたびこの「巨大くったくたブロッコリ」にはお目にかかり、食べる機会に恵まれました。
慣れますね、人間とゆーものは。確実に。「うん、ま、これはこれでアリかな」と何とも思わず平らげる私がダイニングにおりました。うすーい甘みが、いくらもない香りと一緒に口の中で解けていく。もうとろとろなのでそりゃもうするりと。繊維質もアリで(ははは)。

時々、ホントに時々ですが、そのくったくたブロッコリ、食べたくなることがあります。ただ、実際に茹で抜く勇気が湧かないのでできないのですが(笑)。
バービー バービーのパンやさんでアルバイト
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教員をしていたためか、父はあまり食パンを好まない(給食でイヤでも食べるハメになる上に、やや味気ない、と感じるのだろう、ジャム等ついてくるにはくるが)。だが、具材が一緒ならアリらしい。何だその微妙なワガママ。ミートボールは食べられないけどハンバーグは大好きです、よりはマシだが。

その父が、ふらりと出かけると、時々手にパン屋のものと思しき袋を提げて帰宅する。どうやら帰途買ってきたらしい。
自分で食べる分として買ったものをさかさか取り出すと、「あとはお前たち好きに分ければいい」と袋を寄越す。
調理パンなら好き、なのだ。

そんな訳で、パン食の習慣が無い家だが、時々パンでランチ、になることがある。ウマー。毎日、はごはん好きとしてはちょっと物足りなくなったり飽きることもあるのかもしれないけれど、たまに食べると妙に美味しい。
サンドウィッチが特に好きな母。父は焼きそばパンが好みの模様(出来れば塩焼きそば、がベスト)。私はまあ何でもアリ。美味しければおっけーです。
一緒に飲むのはジュースかソフト・ドリンク(大抵炭酸飲料)。

何処のアメリカン・ファミリィだ。

ヘルシィさとかけ離れてゆくのですが。特に炭酸飲料と一緒、とか言うと。「え、お茶とかじゃないの!?」と吃驚されます。そんなにヘンか!? きっとでぶめにゅーだからだな↓ おまけに、ひとりに2種か3種買ってきたりする父……。食い過ぎだ、それは!

あー、アメリカみたいにパンの種類から具材ひとつひとつまで好みを訊いてくれるサンドか、「サブウェイ」の顎が外れそうなのが食べたいなー(「サブウェイ」はやはり具材をある程度好きなようにオーダー出来て好きVv)。
新世紀エヴァンゲリオン鋼鉄のガールフレンド2nd 4 (4)
林 ふみの GAINAX
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私は俗に言うところの「EVAヲタ」というヤツで、この作品にリアル・タイムで触れて、馬鹿みたいにのめり込んで(と言っても、周囲にそういう同類は居なかったので、随分とひっそり情熱を燃やしていたものでした。たとえるならば巨人ファンしか居ない牢獄で阪神を物言わず心の底から応援しているような感じ。←ワケわかんね)、それはそれはもうこれ以上はないというくらいこの作品を愛した。今も愛している。岡田氏言うところの「EVAはダメだった。でも、それでもオレは好きだ」、終始一貫してこのスタンスで、どんなに最終回で気がふれたよーに怒り狂うひとたちが居ても、意に介さなかった。いいのだ。あれはあれで。そう思っていた。それくらい好きなのだ。
で。この作品にしろ、書いた作者さんにしろ、「EVA」でなければ私は読まなかった。「EVA」が少しでも関連しているなら欲しい、というのがやはり「ヲタク」の性質の一部であるので(とは言うものの、一度同人誌作品のセレクションを大してナカミも確認せずに買ったらコレすべて男性向けエロ、というのに当たって以来、商業ベエスで出版されている同人作品のアンソロジィ等には手を出してない。作品のレヴェルもかなりムラがあったりするし)、「ほほう。角川さんは相変わらずメディア・ミクスが大好きで。そーれでしんしょーつーぶした…じゃねえや、また便乗企画ッスか? つーか面白いんだろうなあ? ああん?」という半ば意地の悪い気持ちで手を出したのだけれど。
……ごめんなさい。面白かったです。この4巻で私は終始アホみたいに泣いてました。

本来の「EVA」がどんなストーリィかを御存じない方は申し訳ないのですが検索でもして確かめて下さい。この作品は、そのオリジナルをベエスにしたパラレル・ワールドの物語で、一応TV版最終回で描かれた「もうひとつのありえたかもしれないEVA」の世界・物語を下敷きにしてゲエム化、それをさらにコミカライズした作品です。

ごくありふれた、ちょっとのんびり屋で穏やかで優しい少年・シンジに、幼馴染みのアスカ。アスカは強気で口やかましくて、でもホントはスナオになるのがニガテな不器用な少女。いつも一緒のせいで夫婦扱いされていて、クラスメイトのトウジやケンスケたちからもからかいの対象。そういうトウジはクラス委員長のヒカリと何やららぶらぶ。そこに元気いっぱいだけれどちょっとだけ謎めいた美少女・レイが転校してきて……という、「絵に描いたような」学園コメディの王道を行く出だしです。いや、もちろんわざとでんがな。そのベタベタの設定にあくまでも「エヴァンゲリオン」という「汎用人型決戦兵器」が登場し、それに搭乗するのはやはり14歳の少年・少女でなくてはならないという設定が付加されている。そこがミソ。

オリジナルではひたすら自分の内面と向かい合って閉じ籠もるしかできなかったシンジが、この作品では「フツーの、どこにでもいそーな」少年として登場する。この「フツー」で「どこにでもいそーな」は実は、あくまでも架空・虚構の中のソレでもあったりする。前者のような少年だって「どこにでもいそー」です。いや、居るんだ。確実に。でも、なりたい自分は自分の中にすでに居るかもしれない。
とりあえず、あらゆる可能性の中のとあるシンジくんと、あらゆる(以下略)のアスカちゃんは幼馴染みで腐れ縁。会えば口喧嘩、会えば軽口をたたき合う。そういう「何でもない日常」がそこにある。
私はまずここで泣ける。オリジナルの過酷さに比して、このある種の長閑さ、穏やかさ。永遠ではないにしても平和な日々。14歳、という大人のハズもなければまったくの子供でも居られない限られた日々を、彼らは「淡々と」「楽しく」過ごすことができている。
考えるべきはたとえば今日の昼食のこと、たとえば明日のテストのこと、そんなことでよかった。いつも一緒にいる幼馴染みは、いつも一緒に居るのが当たり前だしいつも一緒に笑って怒って騒いでいられる、そういう「何でもない」日々だけで綴られてゆく。
そこに「レイ」という「異物」が飛び込んでくる。感情というものが自分の中にあることを知らずに過ごしてきたヒトにつくられたヒトだった少女が、喚き散らし、はしゃぎ、頬を染め、笑う。私はまた泣いた。「そんな風になれたかもしれない彼女」がそこに居る。私は「レイ」というキャラクタアをオリジナルの作品序盤から「コイツは『人間』ではない」と見切ったくらい愛していたので(こういう馬鹿をアヤナミストと呼んだりする。すまぬ、濃ゆい世界で)、表情豊かに走り回る彼女を見ていたらせつなくてしょーがないのだ。

多感な時期、たったひとり「そこに居なかったひと」が登場しただけで、「いままで」が変わってゆく。「変わらない」と思っていたものが少しずつその姿を変えてゆく。そこに生じる戸惑いや感情のほとばしりが痛い。
アスカは自分の感情を持て余し、シンジに八つ当たりをする。シンジはただ「今」が続けばいいと漠然と願っている。レイはただ何かや誰かの言いなりになることはなく、自らの決断で動く(オリジナルではひたすら彼女は自分以外の誰かの意志で行動しているのがほとんどだったのだが、幾度か「私は人形じゃない」と宣言した)。自分に優しく分け隔てなく接してくれる優しいシンジに恋をし、ケンスケは自分がアスカに好意を抱いていることに気づき、真っ向からその感情をぶつける。トウジとヒカリは公認のヒミツよろしく、お互いのペエスで愛情を育んでいる。そして、彼らを傍観し、時に惑わせる少年・カヲル。

この作品に限って言えば、シンジは最終的にレイとアスカのどちらを「もっとも大切な存在」として選ぶのか、がキモであった。展開から言って、この最終巻で提示された「結果」は、それ以外では「嘘」になる、と感じるくらい、しっくりとまとまっていた。
誰かが誰かを好きになる、そのせいで違う誰かの思いは受け入れられず、かといって消えることも消せるものでもなく。14歳なりの真摯な「恋」を、彼らは彼らなりに全うしようとするのだ。オリジナルとはまた異なる「等身大の14歳」が描かれていた。過ぎてしまえば取り戻せない、あとになってしまえば一瞬の出来事のようなその時期を、丁寧に真剣に生きている。

そして、この物語はカヲルという少年の物語でもあった。彼は「変化」を望まず、「変化」を望む者の前に立ちふさがり、「本当に変わることを望むのか」「変わることは本当にいいことなのか」と「見たくない現実」を突きつけてくる。でも皆その問いに正面から向かい合うのだ。多分、それは「成長」と呼ぶ。確かな「変化」。
ところが、カヲルだけは「変化」しない。彼の時間は止まっている。それだけではなく、彼という存在は皆の中から「消え」てしまうのだ。
ラスト、NERVの計画に従い散り散りになったかつての仲間たちが集う。彼らはすっかり成長している。空が少し近くなったと感じるくらいに。いつかまたこの町で会おうと約束し合った時埋めたタイム・カプセルを開き、時は――記憶は14歳の頃に戻る。
シンジは一葉の写真を取り出す。そこには知らないのに知っている少年が写っている。「誰なのかわからないのに懐かしい」と感じるシンジは涙をこぼす。
その時、一緒に撮った写真からさえも、彼の姿は消えてしまうのだ。まるで最初から存在しなかったかのように。
オリジナルでは「キミはボクと一緒だね」とレイに告げたカヲルだったけれど、この作品の中ではまさにレイのような存在になっていた。
ray、霊、冷、隷、零――レイ。掴めぬモノ。そこにないという存在。囚われの身。還らぬひと。

「シンジくん 幸せ?」

問いだけを残して、ほかはなにひとつ残さず、彼は消えてしまった。14歳だったまま、彼だけが消えてしまった。もう誰も彼を憶えていない。誰も彼を知る者はいない。そこに確かに居たはずなのに。変わることもできず。

見上げた空は、14歳の頃と変わらず、美しい青。変わったのは少年と少女。誰からも忘れ去られた少年が消えたのも青空の眩しい日だった。

せつなさと充足感と涙と鼻水(きたねーよ)に満たされて私は読み終えたのでした。
弱いんだなー、この「取り戻せない日々」というのに。せーいーしゅーんのーうーしろすがたおーひーとーわーみなーわーすれてしまうー♪ …戻れないから、取り戻せないから何にも代え難い大切な一瞬になる、というハナシに弱い(私は未だ唯一「コバルト文庫」作品で「マリア様がみてる」シリィズを読んでいるのだが、これを好きな理由もそこにある。よく物語が特に進展せず番外編みたいな話やサイド・ストーリィのみの本が出されると「つまらない」とか言う読者さんも多いと思うのだが、私はそれあってこそだと思っている。学園モノのキモはあのある種の閉鎖性を持った、逃げ場のない濃い空間と時間を共有した者同士しか持ち得ない、その時限定のナニカにある、のだ。だから、文化祭ネタも体育祭ネタも修学旅行ネタも、すべて「必要」なものとして作者サイドは綴っているもの、と個人的には推測してるんだが)。

でもってだな。……なんだよ、この作品のダーク・ホースはカヲルかよ!!(そういう伏線もあったんだが!)腐女子属性の薄まってしまった(そりゃ若気の至りてえのがあって、昔はそのテのノリにきゃあきゃあ言えた時代もあったのよ…)私にとっては、あまりカヲルというキャラでミョ~な方向に走ってほしくないのだが、何とめでたくこの物語が完結したと思っていたら、第2部開始でシンジの両親ゲンドウ・ユイに加え、このカヲルがまたまた登場するという林さんのオリジナルと思しき物語が始まっているとゆーではないか。うをー、どうなるんぢゃあ! とEVAヲタ水玻は今からどきどきしているのであった。

とりあえず、戻らぬ時間と変わりゆくもの、変わらぬもの、それから変われぬものに思いを馳せつつ。
108ピース まだかな まだかな 01-018
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大繁殖した河川敷のうさぎが堤防を決壊させる!? …ナニゴトかと思ったら、そういうことだったのか。
柵で囲ったって、鉄板地下3メートルくらいでも埋め込まないと、うさぎがせっせと穴掘って柵の外にひょいと出て行けそうな気がするんだが。国土交通省(だっけ?)も今回ばかりは大変だのう。しかもうさぎにとっては穴掘るのが習性だから、「やるな!」つーても無理な話なわけで。それにおなか空いたらそりゃ食うよね、芝を。食わなかったら死ぬんだし。

動物を飼う、というのは、本来「偽善」だと思う。「エゴ」とでもいうのか。前にまんがで獣医師が主人公だかで、その主人公が「動物と人間との本来の基本的な関係ってのは『食う』と『食われる』ってことだ」みたいなことを言っていたのを見た記憶があるんだけど、妙に納得した。「食う」のを目的に、あるいは働かせるのを目的に飼う、てのは「わかりやすい」。人間の「生きる」という営みにかかせないものだから、と納得し易い。「愛情を注ぐために」? 「愛情をもらうために」? それは、一体、どういうことなんだろう? 
その獣医師のような厳しい見方をした上でなお、人間が連れてくる動物たちの病気や怪我と向き合う(同時に、飼い主たちとも向き合う)というのはなまなかなことじゃできない。命そのものと、人間そのものと向かい合う…ヘヴィな仕事だと改めて思った。ああ、なんて作品だったんだろう?(ある情報誌でほんのひとコマ見かけたきりなので記憶が曖昧…記憶そのものが間違っていたらごめんなさい)
さらに、有名な(実在の)獣医さんは、「犬や猫は人間と生きるべき動物だから、人間がちゃんと面倒見なくちゃ」みたいなことを言っていた。まあ歴史はあるし、人間が飼うという行為もあってこそ、「野良」という概念で見られる犬や猫が居るんだろうし。
でもって、「偽善」だからこそ、最後の最後まで責任持って「飼う」という行為を全うしなくちゃいけないんじゃないのかなあ、と。何があろうと死ぬまで面倒見る、が最低限、かなあ。そこまでして初めて「偽善」ではなくなるんじゃないかなあ、と。人間並みの病気も「当たり前に」発症しちゃうわけだし。痴呆も患えば寝たきりにもなる。癌に冒されもすれば、風邪にも虫歯にもなる。

あの河川敷のおじちゃんは、根は優しい、いいひとだとは思う。でも、「ペット」飼うってのは如何なものかと思ってしまった。経済的に余裕ないけどカワイソウだから、というのは正直微妙な気分。いや、ある一面からだけ見れば、それは素晴らしいことだとは思うんだけど。でも、こういう時、手放しで「自分のことを二の次にしてでも面倒見るってのはエライなあ!」と思うべきなんだろうか。おじちゃんがすべきだったのは、徒に増えてゆくうさぎを、ただ可哀想だから、と河川敷に自由に暮らさせることよりも、ちゃんと飼ってくれる心あるひとを見つけることだったんじゃないのかなー…(おじちゃんが実は山のひとつも持ってて、そこで放し飼い、てんなら別)。いや、それがとても難しいことだとはわかってるんだけど。理想論だと思う。里親探し自体大変だし、その里親になろう、と思った方がどれくらい真剣に「命」を引き取って育んでくれるか、最後の最後まで面倒みてくれるか、正直わからないし。
いや、今回のうさぎの件、そりゃ可哀想です。そのへんにぽんと捨てられる、それ自体まず可哀想だし、それが野犬だの猫だのに襲われてしまうのはまた可哀想だなあ、とは思う。
心優しいあのおじちゃんが居たから生き延びられたのも事実。もぐもぐと草を食む姿なんてそりゃもう可愛いったらない(3羽並んで、真ん中の1羽がもぐもぐ草食ってると、右隣が口からはみ出てるのを奪い食い。さらに左隣からも奪い食われている。でも、みんな真っ直ぐ見てんの。そんでもぐもぐ。可愛い。可愛すぎる)。
でも、弱肉強食もある程度は仕方ないわけで、人間のエゴで捨てられたり人間と暮らすことを拒否したくなって野生のケモノと化した動物は、そうやってでも「食物」を得なかったら死んじゃう。野生に還るしかなくなったのは人間のせいだし、殺処分するのは気の毒過ぎて、でも自分では飼えない、と他人に押しつけた末に預けられた側で増えたうさぎが、飢えた、あるいは習性のままに、猫やら犬に襲われて死んでしまう、それも結局は人間が原因だろうし。だからこそ、守ってやりたい、と思うひとも現れて。人間のいいところが必ずしも善なる所に着地するわけではなかったりするという、分かり切ったことを改めて見せられた「事件」だった。

本来の意味での「可哀想」てのは無責任に引き取って(むろん、おじちゃんにしてみれば可哀想だから、自分が面倒見るんだ、という意志の元に引き取ったんだとは思う)、無責任に飼って(おじちゃんなりに大事にしてただろうし、可愛く思っていたとも思う)、無責任に増やしちゃって(手術受けさせられないんだもの、と言うのはあまり理由にして欲しくない…。だから、そういうことを渋るとかできないのなら、「飼う」のはちょっとどうかな、と思ってしまうのだ)、とか、そういうことではないのかい。
「だって増えちゃうんだもの」はリクツにならない。してほしくない。増やしたい、増えていっても養える、私にとってはそれが仕事です、それならわかるけど、「自然の摂理なんですもの~」と言われても、「人間社会に置く」、つー「エゴ」を発動させた時点でそりゃないでしょー、と思う。動物は、特に弱い動物であればあるほど、繁殖力は強いんじゃなかったか? 種の存続のためにできるだけ生存率を高めるために多産である――違ったっけ?(じゃあ何でごっきーはわらわら増えるんだ、とかはわからないです。人間絶滅してもヤツらは生き残るって言うだろう! って言われましても、チャバネなんかはそーゆーやたらと一度に卵産む種だ、としか知らないので。クロゴッキーはチャバネほどは量産しないです。だから、マメに卵チェック〈……をえ……〉して処分してると見る確率は低くなるらしいです。って何の話だ)

動物には動物なりのルールだの掟だのそれなりにあるわけで。犬は本来群れる習性があるから上下関係を明確にさせておかないといけない。ただ可愛い可愛いと猫かわいがりしてたおかげで「我こそはこの群れの王!」と思い込むハメになって主人に噛みついてみたり命令に従わなかったりというのはよくある事例らしい。人間社会に置くというのは、彼らの習性も理解した上で、それでもなおコチラ側のルールに従わせることになるのだからして。愛情を込めつつも厳しくしつけて、コチラの社会のルールに従わせて、ということをしなくちゃいけない(…と私は思ってるんだけど、どうなんだろう? それこそ、自分の面倒も見きれない人間なので、これまでにペットを飼ったことがないのだ。飼えるものなら、犬ならドーベルマンを飼いたい……。猫なら毛足のあまり長すぎない種のもの。ペルシャとかじゃなく、アメショみたいなの。実現不可モノとしては黒ヒョウ。餌にされるのがお決まりのオチですな)。根気よくコチラの「都合」を理解させて従わせた上で「私はアナタと友達(あるいは家族)よ」という関係を築かなくちゃいけない。

人間社会に帰属させる(意地悪い見方をすれば隷属させる)ことで人間は喜びや日々の潤いを得られる。それなら動物は? ホントウにシアワセなのか? 動物にとってあらまほしき「愛情」てのは何なのか。
やっぱり、簡単に飼おうと思うべきではないなあ、と今回は思いました。
文豪ナビ 芥川龍之介
新潮文庫
4101025002

……企画としては好き。ナカミもいい意味で軽さがあって。なので、所謂「本読み」には向かないかもしれない。
文庫版「知ってるつもり!?」ですな、コレ(昔そういうTV番組あったんですが、まだ御存じの方いらっしゃるかしら?)。つまり、端的に言うと「コレ1冊で○○(作家)のことが一通りはわかっちゃう!」というもので、代表作や彼らの生涯なんかをかいつまんでコンパクトに解説してくれる、という類のもの。でもって、これまたTVと一緒なんですが、まさに「知ってるつもり!?」に陥ってしまってはいけませんよー、という本でもある。
そのTV番組、1時間(まあ正味45分程度でしょうか)である人物の生涯をたどり、著名な研究者なんかにちょいと解説していただいて、それを見聞きしたパネラーたちがコメントを言い合う、というものなんですが、タイトルの「知ってるつもり!?」というのがヒジョーに逆説的なところがポイントなんですな。
有名なひとで、学校の授業中に名前を聞いたことあるでしょう? こんなことしたひとだ、なんて言われて何となく憶えてるでしょう? でも、本当の意味で知ってる、と言えますか? あるいは名前しか知らない著名人っていませんかー? という問いかけなんだけど、結局のところ、この番組1時間観たくらいで「知ってるつもり」になれるわけねえだろ、というある種皮肉に満ちたタイトルで企画だったわけですよ。で、先日新潮から出たこの文庫のシリィズも、そういうカンジなのです。これ1冊で「知ってるつもり」になろうなんつーココロガマエで許されるのはせいぜい中高生くらいではないかと。あくまでも「とっかかり」でしかない、その「とっかかり」に、色々腐心しました、面白くなるよう工夫してみました、いかがですか、というガイド本である、と思って読む、というのがあらまほしきスタンスではないかと思います。出版者側のスタンスに立つと、「コレ読んで興味持ったら、ウチの文庫買って読んでねVv 何せ点数揃ってるよお~♪」という手間暇かかった広報誌というか「宣材」ではないかと邪推する次第でして。

本文の紙質良し、カヴァはふだんの、読んでるうちにすり切れそうな脆弱なものではなくPP加工済みの豪華さ(※PP加工:わかりやすい例でいくと、学校の教科書。うっすいヴィニルみたいなのが角とかすみっこから剥離してきたことありませんか? その、コーティング加工のことです。補強と防水くらいの役には立ってる、と思うんですが、どないでしょ。いい加減な説明で申し訳ない。並装の本で、カヴァ無しの本だと、少しは本が良質に見えるという利点もあるんですよ。←と私は思ってる)。巻頭にはイメエジ・フォトなぞもあって、あらまおっされー。
私は全冊買う予定ではあるんだけれど、手始めに芥川を買ってみました。……恩師の専門だったので(そんな理由……)。
文章が軽妙で、重くならないように、遠い存在ではないんだよーと言いたげなテンポで綴られております。まだ途中までしか読んでないのですが。……アレはアリなんですかい、新潮さん。
「奉教人の死」のキモの部分をネタばらし……。あれってラストになって「ああ…!」と作品世界の人物たちと驚嘆するのがいいんでないのか…。ちょっと、というかかなり吃驚したぞえ。いや、この本って、「さあまだ小難しそうだからって読んだことのないそこのキミ! これから読んでみないかい?」と手を差し伸べてるよーなモノ、だと思ってたので、そりゃないっしょ、と思ってしまったんだけど(読んだことのあるひとも対象内ではあるだろうし、読むこともむろん想定しているわけで、新たな切り口の提供も兼ねてのことだとは思うんだけど、……ミステリの解説本であらすじどころか犯人教えてくれてるよなもんじゃないですかい、と愕然とした、んです、私は)。
まあ、それ以外は作品を「とりあえず」ある読み方で読み解いて見せて、彼の作品の面白さだとかについて書いてあって、楽しめるのですが。
本文の下部(スペエスとしては5分の1か6分の1くらいの幅かなあ)に注釈コーナーを設けてあって、ちょこちょことイマドキなナニカに繋がるネタに触れたりリンクさせたりして、興味を持てる幅、を広げようという努力が見られます。
とりあえず私個人は久々にマトモに芥川作品をしみじみと読んでみたくなりました。やはりまず原典ありきですから。
ただ、あまぞんのれびゅうで「芥川作品の○○と××の面白さがわからない」と嘆いている方を見かけたけど、誰も「わからなくてはイケナイ」なんて言ってないよー、と言ってあげたくなるな。逆にわかりたい理由を知りたい。どうせ問うならそこにしたまへ若者よ、と老人は思うのであった。

価格としては手ごろだし(多分、装訂のコスト削ればもっと安くできたね!・笑。でも、これは「うん、このくらい凝ってるくらいがいいやね」と思った)、「文豪」の本を読んでる気分(ははは)に浸れなくもないし、それなりの面白さと存在意義はあるかな、と感じました。いや、存在しなくていい本なんてないんですが。そんなこと言ったらすべての本はどうでもいいんです。……でも、いいことないでしょ? だったら、どの本にも存在意義だとか価値だとかはあるってことでして。はい、読者の数だけ。
新潮社さんの思惑通り、コレを読んで各作家の文庫に手を伸ばすひとたちが増えるといいですねえ。
読まなくても死なないですよ。死にゃしませんがね、どうせ死ぬんだから色んなものは見といて損はないんだよーと。思うわけですよ。トシヨリはね。

でもって、もひとつ疑問。とりあえず7冊出てるわけですが。山本周五郎さんだけ浮いてる気がするんですが。ああいうラインナップだと「鴎外森林太郎あたりが出てこないか?」とか思っちゃうんだけど。自社からの刊行点数少ない作家だからか? いや、いいんだけど。うーん(そこまでこだわってんならよかねえじゃねえか)。
For the Love of Soup
Jeanelle Mitchell
1552854094

この本は、著者から半ば直接購入した。「半ば」というのは著者の娘が国から持参してくれたのを購入させてもらったから、だった。その娘というのがかつて働いていた職場での……何だろう、一応仕事仲間か? まあ一緒の職場に居た女性なのだった。
私が購入した頃は、……所謂ISBNナンバーもついてはいたけれど、言うなれば私家版とでもいったところで、手作り感の感じられる本であった(言い方はどうかと思うけど、並装でカジュアル、豪華な同人誌、みたいなカンジ。わあ、表紙マットなPP加工してあるんだあ、という私の感慨?はわかる方のみわかって下さい)。著者直筆の署名と "Bon Appetit!" というひとことも添えられていた。
その本を購入させてもらった時、ISBNナンバーが入ってることだし、と Amazon で検索をかけてみたところ、見つからなかった。あるのは一時期有名になった「こころのチキン・スープ」の原書ばかりだ。
かなり経過したある日、戯れに日本の Amazon で検索をかけたら。HITする!? ナニゴトだ! 私は Yahoo! Canada にアクセス(著者はカナダ在住なので)し、この本のタイトルを検索してみた。すると、出るわ出るわ。私が検索した当時は取り上げたTVや雑誌のサイトがばんばんHITした。どうやら地元で知られるようになり、改めて出版されたようなのだ。本の画像も私が持っているものと若干違う。表紙の絵や中に少し添えられたカット等も、Mrs.Mitchell の手になるもので、彩りも鮮やか、味わいがある(本文はすべてモノクロ。カラー一切ナシ。料理の完成図も掲載されていない)。
いい意味で簡素に仕上がった本で、登場する料理は100種以上あるのだがこれすべてスウプ、である。料理名と材料、時折そのスウプに関する彼女自身の思い出話やエピソオドが綴られているほかは、簡潔な英語で作り方が書かれてあるだけ、のものだ(短く綴られたエピソオドがまた何となくイイカンジだったりする)。なので、よくある写真集の如きレシピ本を想像なさいませぬよう。

Mrs.Mitchell は元フライト・アテンダント。世界各国を飛び回って各地の美味を味わったことがあり、料理が元々お好きだそうで、その時々を思い出しつつ自分なりにアレンジしたレシピがたまり、それが高じて出版の運びとなった模様である。……何だか住む世界の違いを感じるわ(哀)。元すっちー(死語!)で今はスウプ料理のレシピ集を発表して地元で注目される、なんて。上品な佇まいのご婦人でした(一度御夫婦で来日なさって、会社にも顔を見せに来て下さいました。仲の良さそうな御夫婦でうらやましかったなあ♪)。
アチラの本のお約束で裏表紙に御本人の写真があるのだけれど、御自宅のキッチンでにっこり微笑む姿が。そのキッチンがまた何とも言えずアチラな雰囲気が出ていてよいのでありました。

ちなみに、娘が「母のレシピでつくってみたの」とスウプをつくって私にもわけてくれたことがあったのだが。……皆さん。やはりこのフレエズは必携です。海外旅行、特に北米におでかけの際は役立ちます。そうです。アレですよ、アレ。ええ、夏、渓谷へ落とした(違)。

「ぷりーず・ぱす・みー・ざ・そると」!!

塩気を、一体どこにやっちまったんだい、べいべー。ええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで谿谷へ落とした(しつこい)。
そういえばレシピの巻頭の辞に何ぞ塩分の摂り過ぎは身体によくないからその点配慮したわよん、みたいなことを書いていた気がするが。それにしたって素材の味活かしまくりだろう。素材の味しかしない……。米! キャベツ! 人参! せろり! それも煮込んだ、ちうより茹で抜いた! ちうノリの!! 
うむ。これは確かに健康にはよさそうである。だが。鮨食う時はむらさきに浸すが如くに貪り食うバリバリの北国育ちよ! 足りねえ! 働く身体にゃ足りねえんだ!(どんどん意味不明)
ホントに忠実にレシピを再現した結果だったのかは、私がまだつくってみていないので何とも言えず(をい!!)。旨味が欲しいのは日本人の証なのか?(私には感じられなかった。こう、野菜を煮込んだにしてもコクというかそれなりの旨味つーものが出ると思うんだけど、正直「コレは、その、何だな、野菜のゆで汁?」というカンジで↓)チキン・ブイヨンとか、何かしらやはり動物性の旨味なりがあったほうがよかったなあ、と思いつつ完食。ああ、何でココの事務所って塩ないんだろうなあ(珈琲と紅茶、砂糖なんかは常備だけど。って、フツウ塩はないか…)とか思いながら。それもレンヂなんてないので冷たいまま……(家に持って帰れる容器ではなかった。多分持ち帰ったら胃の腑に染み渡るどころかバッグの中に染み渡ってしまう……)。でもって、冷え冷えなんだから、塩気を強く感じてもよさそうなものでしょう。それが、ナイ、んですよ。皆無。つくった本人は、ホントに、その、お、美味しい、のかなあ……。
うーんうーん。やはり確かめるには自分でつくってみるほかないか(しかし材料をすべて思い出し、索引からアタリをつけ探し出すところから始めねばならないのである。気分は料理というより実験だ)。

材料、グラム表記なので日本人にもわかりやすいです。親切♪(カナダはフランス語圏もあるからかしら?)小難しい単語もあまりないし、材料は大抵手に入るようになってきているので、この寒い時期、色々と楽しめそう。スパイシィなのやアジアンなものまで様々御座います。

塩分控えめ、というのは前にも書いたけれど、肉食中心の食生活の場合より考慮すべきなんであって(肉には血も含まれていて、その血に塩分が含まれている、らしい。なので、味付けによってより塩分を摂取することに繋がるので、控えましょう、と)、極端に減らすのもいかがなものかと思うのだけれど。私は脳卒中とかで死にそうだが(まさに私のよーなヤツこそ塩分控えろよ、と)。自分の好みでアレンジしてそのスウプを頂く、やはりさじ加減一つで御座いましょうか。ああ、私、迷わず塩振るわ。あるいはタバスコ(出ーたーなー)。

私にとってこの本が何である意味「貴重」かというと、「知ってるひと」が書いた本だから、なのだな。著者に直接会う、あるいは知り合いが著者になる、というのは私には衝撃的。出版業界で働いてる方や周囲に作家だ著述業だとそれを生業にしているひとがいっぱいいらっしゃる方にはそうでもないのでしょうけれども。
だって書いたものがまとまって「本」てカタチになって世に出回ってひとの目に止まるのよー? しかも商業的なモノで(同人誌、は私も出したことがあるので別格。でも見ず知らずのひとが描いたものより近しいひとがつくった本の方がやっぱりちょっと違う重みのようなものをもたらすんだけど)。しかも、ネットでひょひょいと買えちゃうんだもの。
ああそうだ。(娘から、とはいえ)手渡しで受け取った、というのも大きいな。作家さんのサイン会にわざわざ並ぶ気持ちがあの時初めてよくわかった気がしたのだった。
だれが「本」を殺すのか〈上〉
佐野 真一
410131635X

今「書架」をせっせと整理しているわけだけれど(現実の、ではなくネット上の、である。いい加減実生活の本棚を整理しろとあれほど・以下略)、改めて思うのは、絶版だ品切れだという本や多い、ということである。正直呆れるほど。買ってくれ、と出しても売れなければ、時過ぎれば、あっという間に過去の遺物と化してしまう。遺物ならまだいいか。「遺」ってるだけマシ。一般市場から姿を消してしまう本は年間何点あるんだろう? いい本なのになあ、面白いのになあ、と思うような本が、何かが剥離してゆくようにほろほろと消えてゆく。
本当の意味では消えないのだろうけれど(とりあえず著者の元には原稿があり、版元には版権を手放さぬ限り。処分せぬ限り原版があり、国会図書館へ行けば所蔵はされているし、読者の誰かが所有し、古本屋、新古書店に行けば巡り会える…ハズだ)、「買いたい時に買えるものか」と問われたらどうも答えは「No」らしい。本好きには由々しき問題である。

Amazonで運が良ければ、適価で譲ってくれるひとが居ることもあるし、まめに書店をまわれば見つけられるかもしれない。近年はあちらこちらに規模の大きな新古書店が見られるようになってきた。でも、昔のようにふらりと立ち寄った「書店(本を贖える場所なら形態は問わない)」であっさりと新刊なり既刊なりを見つけて買えるかどうかとなると、……そうではない気がする。そうではないことが多くなってしまった。
そりゃあ無限・永遠には残らないもののほうが大半だろう。でも、ほんの数年前の文庫だ新書だ単行本だと買えないものが多いというのはどういうことなのだろう?(…まあ、たまたま私の好む本にはマイナーなものが多いのかもしれないが)「あとで、でいっか」なんて言ってるうちに本ではなく「版元にも在庫が御座いません」という返答を受け取ることになりかねない。
どこの出版社も、ハーレクイン社のように割り切るしかないのだろうか(ハーレクイン社は在庫保有期間は4ヶ月、と定めており、その期間を逃したらあとは流通在庫か古書店で探す以外手に入れる手段がない。また、よほどの人気作、つまり「確実に売れると判断できぬもの」や本社や著者との折り合い等がつかない作品は再販される可能性が低く、一度逃すと少々面倒な目に遭う。本国では比較的再版のサイクルも早く、極端な入手困難に悩まされることはないらしいのだが。有名作家・人気作家の作品がオークションに出品されるとエライ金額でさくさく落札されていくのを見ることなど稀でも何でもない。ひと月の刊行数が常時20点以上と多く、それらを延々保有するための倉庫等に経費を割くよりも、裁断処分にしてしまうほうが益に繋がる、らしい。まあわからないでもない…がもったいないです、どう考えても)。そうならないで欲しいものだけれど。
その一方でオン・デマンド出版もあったり要望を集めて復刊に漕ぎ着けたり、というケエスもあるわけで、やはり本を愛して止まないひととて多いわけで。……その本ですら時期を逸すると入手困難になるというカナシサ。

増えはしても減りはしないのが我が家の書籍(むろん、カネは比例してガンガン減ってゆくのだが!)。私の部屋の壁4面で本という存在から免れることができている面は一切ない。押入の中にも少しばかり突っ込んである。別室にもさらにどさどさ。ああ減らない。ああ増える。そりゃ買うからだが。そりゃ捨てないからだが。

だってね。買える時買っとかないと、手に入らなくなるんですよ。ド田舎は、あまぞんだってびーけーわんだって本を注文すりゃ配送してくれるけど、つい買い逃したとして、新古書店なんてそうそうありませんし。あっても私が欲しい本があるかどうか、それはまた話が別だったりしますしね。

……と自分に言い訳してまで本を買うわけである。買えない本がこの架空の書棚にも詰まってやがるのよう! どうしてくれようか!(もっとも、大半を所有もしている、という時点でいかがなものか、と思わないでもない…)助けてホリえもん! ポケットからお金出してえ!(あ、ホントにぽけっと・まねーだ…寒…)そういえば、彼がいかに自分が稼ぐかを綴った本あるけど、あれを購入したたくさんのひとたちのおかげで、彼はまたさらに潤ってるわけね。ヨノナカ、ウマクデキテルネー。
だれが「本」を殺すのか〈下〉
佐野 真一
4101316368
人はなぜ学歴にこだわるのか。
小田嶋 隆
4334783503

これ、読んでみた方がいいんだろうか。前々からとてもとても気になっていたので。いや、その、この本そのものが、というのではなく、「何で学歴にこだわるひと、というのは居るんだろう」ということが。

ある会社の面接を受けた時、「大学出てるのにもったいないですね」と言われたことがある。職種は「販売員」。
えーと。それは、「大学を出ているひと」が「販売員」をする、のは、オカシイ、という意味なんでしょーか。それはつまり、「販売員」という仕事をバカにしてるんではないかと思うんですが。

そう尋ねてきたひとは、経歴等から言って、どうやら大卒ではないらしいのだけれど、何か「大卒」に恨みでもあるんだろうか。何がどうもったいないのだろう。
大卒だと販売員勤まらない、ということ? それとも「高卒」なら販売員向きってこと? 大学出てるひとが「やるべき」仕事ってどんな仕事なのか。「高卒向きの仕事」ってのがあるなら、何なのか。そもそもその仕事をするのに「学歴」がどう関わるのか。

さっぱり解らない。

大卒でもアホウはアホウだし、高卒だろうが中卒だろうがちゃんとしてるひとはしてるし。学歴って、何のための、何を見るための基準なんだろう。
そりゃあある程度は「基準」になることもあるだろうとは思うけど。でも、「働く」とか「職種」ってので見た時、本当に関係ある場合ってそんなに多くない気がするんだけど。
職業に貴賤無し、は正しいと思うけれど、差別がつきまとうのも事実。「○○は所詮○卒程度の仕事」、「○卒なのにそんな仕事してるの?」だとか、あれこれ言われることも確かにある。
でも、そんなに大事なのか? 何処の大学出たか、とかって。

ある会社の社長は、延々私の学歴と自分の学歴を比べて、イヤミを言い続けた。自分はものすごく努力してたった1年一日10時間以上勉強して国立大イッパツ合格だった、という自慢をした後に。そんだけ自分の経歴に矜持を持ってるなら、他人を貶めなくてもいいのではないかと思うんだけど。貶めないと自信を持てないってことなのか? そんなに褒めてほしいのか?

政治家が学歴詐称する理由も解らない。別に何処で学歴が終わってようが、仕事さえしてくれりゃどうだっていい。海外の大学だの大学院だのの名前あったからってエライとは思わないし(でも、何をやったか、その研究内容に対して所属していた大学なり何なりがどう評価されているのかとか、その成果や名声等ではやはり「すごい!」と思ってしまう自分が居る。……ダメじゃん……)。

何で、こだわるんだろう? ホントに、不思議。
ハロー ! チップとデールがやってきた !!
B00069BLRG

もう随分前のことになるけれど、確か「悪魔のささやき」という名の、一種のばらえてー番組があった。一般人から挑戦者を募り、ゲエムをこなすことで賞金を獲得できる視聴者参加型の番組だったのだが、「切実にお金が欲しいビンボーさん」が参加条件/資格であった(と記憶してる)。まあ、実際は本当に困窮していなくとも、とにかくゼニが欲しいんじゃ! という理由があれば応募自体はできただろう(ちなみに、2段階構成になっていて、最初にトライしたい金額を提示し、ゲエムをクリアすると、より上の金額を得られるかもしれないチャンスをも手にすることができる。それに失敗すると最初のゲエムで手にした賞金もゼロに。故に、「さあ、次のゲエムも挑戦しますか?」と「悪魔(主催者側)」がささやいてくるので「悪魔のささやき」というタイトルなのであった)。
理由も使い道も様々で、「失踪した家族を捜す費用が欲しい」「母親の手術代が欲しい」というまさに切実な理由から「一度でいいから○○したい(この○○に当て嵌まるモノ・コトは必ずしも他者から見て切実には思えぬものも多く、会場に集う観覧者にして応募者を応援したいか否かを表明するある種のジャッジメントを下す陪審員的存在でもある人々から、ブーイングを浴びたりすることも多々あった)」、「どうしても昔から欲しかった××が欲しいけど高額過ぎて手が出ない!(以下前者に伏した付け足しと同文)」等の「どこが切実なんじゃい!」とのツッコミも甘受せねばならない願いまで、それはそれは多様であった。
ひとの数ほど煩悩・欲望はあるのだ。108つ、なんて数量限定、しみったれてはいないのが現実である。
数限りない挑戦者が出場したのだが、さほど観てはいなかったこともあって、記憶に残っているひとは限られている。というより、もうこの一組しか記憶してないと言ってもいい。もっともキョーレツだったのが「ちっぷ&でーる貧乏」というヤツであった。

この番組では、挑戦者が必ずゲエム前に自分たちの挑戦する意図を表明せねばならないことになっていた。その出だしが決まっており、「私(これが複数人ならば「私たち」)は○○貧乏です」と宣言することになっていた。
まださほど年嵩とも思えぬ男女が出てきて、マイクに向かってこう言った時、私は凍り付いた。

「私たちは、チップ&デール貧乏です」

はぁ!? すげえコトバだ、と思った。「ちっぷ&でーるびんぼう」。何だそのごっついインパクトは! 凍り付いた私はむろん、瞬時に自然解凍され爆笑するハメになった。しかし、当人たちは至って真剣である。確か以下のようなことを言っていた。
「私たちは、某版権にクソウルサイ(←ここの部分は私の悪意善意によるわかりやすい追加説明♪)ねずみーらんど(仮名)のチップ&デールというキャラクタアを何よりも愛する。週に何度も足を運び、新しいグッズは出ていまいかチェックしては購入してくる。園内の装飾に登場する彼ら、パレエドに参加する彼ら、すべて見逃すことなくあまねく網羅すべく通っている。買えぬもの、持ってこられぬものならば、写真に収めてでも手元に置いている。従って経済面が苦しい。そこで、今回ゲエムに挑戦し、賞金獲得した暁にはこれでもかと通い、グッズを買い倒し、心ゆくまでちっぷとでーるに浸りたい」
……のだそうであった(確か)。いやすごいね。
御家庭の様子を撮した写真も披露なさったのだが、これがまさに一面ちっぷとでーるで彩られ、ミリほどの隙間もない勢いでそこかしこにちっぷとでーるとちっぷとでーるとちっぷとでーるで埋め尽くされていた、のだった。情熱の赤い薔薇~、そして狂気~♪

確かにね。馬鹿げた理由だと思わないでもない。己の収入、身の丈に合った快楽を追求せよ、とひとは思うだろう。しかし、その歯止めが利かぬほどに、そのちっぷとでーるという名の栗鼠(…栗鼠ですよね、アレは。違った?)を愛してしまったのだ。それも、夫婦仲良く。どちらか一方がのめり込んでいるのなら喧嘩の原因のひとつにもなろうが、両者共に仲良くそれを愛しており、それのためだけに何くれと無く貴重なものを費やしているのだ。……シアワセではないか。もっと欲しい、もっともっと欲しい、そう思うのもまたひとの性。とりあえず、他人に迷惑かからんのならよいではないか、よいではないか。
こっぱずかしさもかなぐり捨てて、ただひたすらちっぷとでーるに会いたい、手元に置きたい、その一心で番組に応募したその熱意。ほかのものに向ければいいなんてことは重々承知していた「理性」もあっただろう。しかし。それでもなお「欲しい」という気持ちを抑えられなくなったわけである。

ちなみに、どんな結果に終わったかは、もう憶えていない。確か、途中までイイ線行ってたけれど、結局ダメだった、みたいな感じだったような気がする。会場からはむろん、その理由を表明した時点でブーイングの嵐である。いやもう記憶なんてものは、「私たちは、ちっぷ&でーる貧乏です」というヒトコトの前に、すべて消え去ったようなものなのだ(笑)。

貪欲さは罪なんだろう。いけないことなんだろう。でも、物欲のカタマリな私には、彼らをアタマから否定することはできなかったし、資格もなかった(笑っちゃったけど↓)。おまけに、彼らはちっとも「不幸」そうには見えなかった。とても仲がよさそうだったし、楽しそうだった。共通の趣味のある仲睦まじい若夫婦に見えた。
いいじゃないの、シアワセならば(ちょっとー。コレの典拠わかるってちょーヤバくなーい?←平板アクセント推奨)。
今もふたり仲良くねずみーらんど(仮名)に通っておられるのだろうか。

モノがなくちゃシアワセじゃないなんて嘘だ、そう思うのもそのひとの信条ならば、好きなモノあってこそ私はシアワセ、それもまたそのひとの信条なりシアワセであろう。個人的には、あの御夫婦には、じじいばばあになり、ふたりを死が分かつまで、ちっぷとでーる一色に染まっていて欲しい。世界一の「ちっぷ&でーる」馬鹿を目指して欲しいくらいだ。歯のない口でふぉっふぉっふぉっと笑いつつも「これは手に入れるのに苦労しましてなあ…」などとほくそ笑んでいて欲しい。

で。先月だったか、モールをぶらついている時に発見して、思わずトライしてしまったカプセル・トイ(「ガシャ○ンはBAND○Iの登録商標です」)。もちろん、脳裏にはあの顔も憶えていない夫婦がにこにこと笑っている様が展開されている。
「さあ、トライして御覧♪」。脳裏の像が笑顔で語りかける。うん、ボク、やってみるよ! 財布を取り出し、¥100をつまみ出す。
「食べ物の着ぐるみを着たちっぷかでーるが当たります♪」てなもんで、私としてはその中の「ロール・ケエキ」か「ババロア」を期待していた。決して、決して茄子だけは引き当てたくはなかった。つーか、何で sweets と野菜とが同じラインナップに入るのだ、ボケ(←某カプセル・トイ・ベンダーの企画部に捧げるひとこと)。そう、あろうことか、シリィズ第3弾目とかで、それなりの好評企画故に数を重ねているのだが、何をどうすればそうなるのか、ラインナップは「お菓子と野菜・果物」なのだった。茄子にレモンに桃……なんだソレは。
20050101015833.jpg「お願い、茄子、茄子だけはヤメて!」
……私の願いは間違いなく、悉く無視される、と神世の昔から定められているらしい、とこの時悟った。

茄子かよ!!

イッパツ目、何の躊躇いも淀みもなく、ベンダーが吐き出したカプセルには茄子の着ぐるみ姿の栗鼠が収まっていたのだった。茄子って何だ、茄子って!! 可愛いのかよ、コレ!!(いや、ある意味では)いやそもそもフルーツやら何やらの中に何で、何で茄子なのおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ(以下フェイド・アウト)。
20050101015531.jpgほうら、その後もヒキの良さバリバリ発揮で桃と檸檬もGETさ!(号泣)くじ運無さ過ぎるだろ、自分……。
「ね、ちっぷとでーるは何着てても可愛いんだ♪」
顔も憶えていない夫婦が脳裏で笑顔を湛えたまま(以下略)。

のちに再度トライし、やはりイッパツ目に茄子を引き当てた私。おう、売られた喧嘩は買うたろやないかい! ベンダーに蹴りを入れそうな勢いの私を尻目に、一緒にいた友人が挑戦すると、あっさりとロール・ケエキGET。さらにババロア。ねえ、アナタは私の天使サマ? 友人は何の未練もなくそれを私にくれたのだった。ありがとう、心の友よ!(byジャイアン)そして、茄子は別な友人に押しつけてあげてしまった。私のカナシミを、分かち合って頂戴……。投資総額何と¥500以上……。えーと、文庫1冊は買えるわよね。えーと、うーんと、えーと(哀)。

これで私もリッパな(?)「ちっぷ&でーる貧乏」です……。
ふらふらと(?)ネット上を漂いながら、あちらこちらのブログやら日記やらを拝読する。……1日に3~4コも記事が書いている方を見つけて吃驚した。モブログとか、そういうカルイものではなくて、ちゃんとPCから更新、というカタチで。スゴイ。その情熱を活かす場所がほかにないんだね、と少しばかり意地悪く思いつつ(笑。あ、ネット依存の一種、と思えなくもないか)、パワフルさには圧倒されるし、憧れる。あるいはある種の執念とでも言うのか。誰に伝えたいのかも判然としないたくさんの言説がぽんぽんとUPされていた。
もっとも、「書ける」「書いた」という事実と、読み手が「楽しめるか否か」はまったく別の問題だ(「内容」や「主張」とは別な次元では楽しめる。主張はそこそこ真っ当だがヒステリックな論調だったりでゲンナリさせてくれるもの、言ってることはごく一部のひとにしか解り難いノリなのに笑えるもの、文章にはひととなりが滲み出てしまうので、それに着目して読む分には、内容に関係なく楽しめなくもない。……こういう根性の曲がった読み方をする人間は稀だろうが。そこそこ文章が書ける人間のモノのほうが、「人間性」というものが滲み出やすいのでなお楽しい。←いよいよ底意地が悪い見方・笑。私? フツウに、隠しきれない人間性の醜さが文章に出るタチで御座います。ほほほ)。他人にとって面白いかどうかはやはり自分の持ち得る主観では量りがたい。だから、そんなことはとりあえずあまり考えないことにするのだろう(…か?)。「ナニモノデモナイワタシ」を意識することもなく、とにかくまず「書きたい」のだ。そのひとにとっては「書く」という行為が切実に必要なのだろう。文句だったり愚痴だったりノロケだったり、とにかく「書きたい」(レンアイ系のあの酔いっぷりはまたすごい。これでもかと「ぽえまー」になっている。恋とゆーのはオカシくなってないとできないとつくづく思う。というよりも、オカシくなるくらいのソレがもしかしたら恋なのかもしれないが。子供だからわかんなーい♪ …石はやめなさい、石は)。

ふ、と疑問が生まれる。「誰もアンタなんかの『日常』にはキョーミなんてないよ」と思うことはないのかな、と。「アンタがふだん何をどう考えてるかを伝えたとして、誰がそれを知りたいと思うんだ?」とか、思うことはないのかなあ、と。……思わないから書ける、のだろうか?(まあ、これは自分に対する問いでもあるけれど)
いや、友人知人、読み手が確実に居るのを知っていて書かれている場合はこれに当たらない。親しいひととのコミュニケイションで、意味のあるもののほうが多分少ない。「アナタとワタシは親しい間柄である」という共同幻想(……吉本隆明氏、間違った解釈で語彙を拝借していたら申し訳ない)を持てる相手とのコミュニケイションほど、さしたる意味もないものはない。しかし、BBSもなければコメント機能もないサイトのものともなると、要はヒトリゴトである。ヒトリゴトとて相手は居るのだが(自分だ)、それをあえて「文章」というカタチにまで昇華させる、その気合いがすごい、と思う(私は書くことが好きではあるし、勢いがつくとアホみたいに書ける方だけれど、カタチにするのにはかなり時間がかかるのがほとんどなのだ。数時間で原稿用紙換算で十数枚書けることもあれば、数時間かかっても3,000字程度の文章をまとめられない時もある)。
電話での長話がそうだ。友人とのおしゃべりがそうだ。用件のみのそれではなく、「気分で」「暇だから」「何してるのかと思って」「何となく」程度の理由でだらだらと話すその大半は、互いの日常の些事の報告とそれに対する反応がほとんどで、ハタから見れば「下らない与太話」のカタマリみたいなものだろう。そりゃあひとによっては「有意義な話」とやらにうち興じることだろう。ひとそれぞれだ。私の長電話最長記録は、確か夜8時に始まって翌朝8時に終了、というヤツだったが、その間に「実のある話」なぞした記憶がない(むろん、皆無でもないのだが。……相手はこの電話の間に、一度中座しトイレに行った。私は電話のあった位置関係上、ずっと立ちっぱなしだった。……若いってスバラシイ。ビバ・お馬鹿♪ ちなみに、先方が「そろそろ終わりにしないとな」と言うたびに私がネタをふっかけるので先延ばしになってしまい、それは「紫堂マジック」と呼ばれた。「うおおおお! また話し込んでるよ!」と何度も絶叫されたなあ。ハマるキミが弱いのだ。弱肉強食・焼肉定食←何?)。
相手との関係性をそういうカタチで互いに確認し合う行為としての「無為な会話」であり「日常の発信」。さして意味のない会話を楽しめるからこその親しさ・近しさ。そこに時折混じる本音や深刻な問題。口から出ては消えてゆくけれど、どれかは、何かは、残る。

私には辛うじてリンクして下さる方、というのがほんの少し、片手の指で足りる人数ほどいらっしゃるけれども、正直、彼らが毎日私のブログなんぞを「わざわざ」チェックしてるとは思えない(笑。私からリンクさせていただいた方の場合は特に。あちらはリンクを快諾して下さっただけであって、別段私の文章を読みたいわけではない。ちなみに私は「古巣」でリンクして頂いていた方々のブログはリーダーを使って更新状況を把握し、こっそりとお邪魔して拝読している)。親しければ親しいほど、近い存在であればあるほど、その確率は低いと思う。なあ、兄貴、そうだろ?(私信)言っとくけど、私があまりそっちに遊びに行かないのは更新が稀だから、だよ(さらに私信)。そしてこの私信は読まれることなく過去の遺物に成り果てる、という寸法である(笑)。

ひとりごと。だとすれば自分にとってしか意味がない。それなら何故チラシの裏に書かないのか。

こんな駄文書くのに、私は数時間要する(何でもそうなのだけれど。手紙なんて数枚書くのに何日もかけて書いてしまい、ネタが古びてゆき、また書き直すハメになる、ということを何度もやらかしている)。ほかの不特定多数の方々はさらさらと何本も記事をUPしているというのに。
読み手に言いたいことが伝わるか、とか、そんなことを考えても、本当はしょうがないのかもしれない。「書き散らす」とやらがいちばんいいのかもしれない(私はこのことばはあまり好きになれない。謙遜としての言なのであろうとは思うけれど。実際に書いた文章が他者からそう評されるのはどうしようもないけれど、もし読み手が居ることをわかった上で書く人間が口にするのなら、失礼な言い草に感じられる。「(面白く)書ける」ひとが言う台詞なら格好良く響くのだろうか。それとも「私は書ける人間だ」という自信がそう言わせるのだろうか。……とりあえず、読み手の存在を知った上で「書き散らす」程度で書くくらいなら、チラシの裏に書いて悦に入るのがベストな気がしないでもない。……ああでも、そんなこと言うなら、自分の書いたものを徒に「駄文」とばかり呼ぶのもやはり読んで下さる方々に失礼であろうか)。

……と、あくまでも「自己満足」のために書いている人間があれこれ考えることの無意味性について書いてみたり。これ、何時間かかって書いたんだ(延べ3~4時間ほど↓)。やはりぽんぽん1日に3~4本の記事が書けるパワアが欲しいぞ。
今は離れ小島に住んでいる。多分、たとえるならそんなところだ。
基本的には島までの交通手段がないわけではない。けれど、敢えて来る人間は数えるほどだ。時折迷い込んできた舟が岸に寄せて少しばかり立ち寄り、私のヒトリゴトを聞くでもなく聞いて去ってゆく。どういうわけか足繁く此処を訪れてくれるひとも居るらしい。有り難いと思う。

売れない厭世的なモノカキが、気分に任せて駄文を綴る。多分、たとえるならそんなところだ。少々尊大なたとえではあるが。
〆切はない。読み手は居るような居ないような、……判然としない。ただ書くだけである。読みたいひとなんて居るのかね、と思っているクセに、書くことはやめない。……休みはするけれど。何せ、〆切は、ない。書かなくても誰も困らない。無為である。だが、私はどうやらその無為が好きらしい。

ちょっと前までは小さな町に住んでいた。多分、たとえるならそんなところだ。
顔見知りが出来て、見知らぬひとが其処此処を通り過ぎ、挨拶を交わすひとが居て、頻繁に行き来するひとが居て、……長閑な町だったと思う。それでいて活気もあったと思う。今もそんな感じだろう。
不思議と、未練めいたものはあまりない。出てゆくことで途絶える関係であるならば、それはそれで一期一会であったのだ、と大切にするなり、あるいは思い切って捨て去るなりすればいいのだし、出てゆく人間を惜しんでくれるひとが思いの外居たりして吃驚させてもらったり、いいか悪いかという次元ではなく、こころにほんのりと残る何かをたくさん得た場所だった。
其処に私が居る必然性はない。出てゆく必然性も、もしかしたらなかったのかもしれないけれど、とりあえずそこをあとにしよう、と決めたのは自分自身だった。だから、未練も後悔もない。ただ、私が抱いた感謝の念と呼べるものが、どれほど伝えたかったひとたちに伝わったのかは定かではない。それが少し気がかりではある。それすらも過ぎ去ったことではあるけれど。

離れ小島の生活も悪くない。時折見ず知らずのひとがやってくる。ひとことふたことことばを残して去ってゆく。あるいは何も言わず踵を返して二度と戻ってくることはない。私はそれを見て悦に入ってみたり、不思議そうな顔をしてみたり、驚いてみたりする。存外退屈している暇はない。かといって厭わしいこと・煩わしい何かがあるでもない――少なくとも、今のところは。凪の中にぼんやり座っているような心持ちになる。

誰も読まないであろう何ということもない文章を綴るという無為な行為には、うってつけの場所だ。扉もなく壁もない其処に書き物机がある。そこに読まれないであろう原稿を放り出しておく。
どうせならグラス一杯のスコッチなりブランデーでも差し出す方が粋なのだろうが、生憎そんなものはない。その代わりにすらならない原稿を放り出しておく。
読むのも読まないのも流れ着いたひとの自由というわけだ。それをもてなしと呼ぶほどおこがましいつもりはないが、隠しておかないあたりは図々しいと言うべきだろう。

疲れたので眠ることにする。机の上の原稿も、書き物机の小さな明かりもそのままにしておく。読むも読まないもお任せする。ただし、読む程の価値があるかどうかは保証できない。ここまで読んでしまった上でこんなことを言われてまだ先を読んでくれるひとはいるだろうか? いけない。唇が三日月のかたちを取る。……夜だ。誰にも見えまい。空のそれではないのだし。

見える足跡は残さぬまま、立ち寄ったひとは去ってゆくのだろう。いつものことだ。
誰が読むとも知れない、あるいは誰にも読まれないと知っていてなお、あれこれ綴ることに、何か意味はあるんだろうか?

まあ、意味のないことをしてはいけないという法もないだろう。とりあえず眠ろう。鍵も扉も壁すらもない浜辺に机と椅子と原稿を残して、ひとまず此処を引き上げる。
いずれ、また。あるいは明日すぐにでも。これが最後でも、それもまた悪くないかもしれない。

では。お帰りの際はお気をつけて。
spoon. (スプーン) 02月号 [雑誌]
B000766O5M

しまった。もう次の号が出ようとしてるのに。今更になってしまった。この号は私が好きな京都のある側面をピックアップした紙面づくり。

伝統、とか歴史、とか、そういうものを背負った(あるいは背負わされた)京都も嫌いなんかじゃないし、大好きだけど、そうじゃなくて、現在進行形で発展したり衰退したりしていく「ナマの(?)」京都のある側面。……おしゃれだったり可愛かったりシックだったりクールだったり格好良かったりする「フツウの」京都。私たちと同じように日々暮らすひとたちが過ごす、「フツウの」「まち」「都市」としての京都。その、ある一面。
修学旅行なんかでしか行ったことない、という人間は確実に居る。私がそのひとりだ。銀閣寺の玉砂利の上を歩いて竹がさやさや風に揺れる音を聴いては悦に入り、映画村行ってみたらしだんご頬張って楽しいなあ(黒地のセエラア服に蜜垂らしてエライことになったなあ)、とか、そんなことでしか「京都」を体験することができなかった人間、というのは。居るのです。オソロシイことに。
京都といえばはんなりしっとり色白の京美人が「今日はえらい冷える日どしたなあ」などとやわらかな京ことばで話すもの、的見方をしている人間はきっと居る!(さすがの私もコレはすでにナイ。…ハズだ)
姫野カオルコさん言うところの「京都の土産物屋」のイメエジで粉飾糊塗された京都を思い浮かべることしかできない人間、というのは。
イマ、ココにアル京都、を知らないひとは、いっぱいいるのです。私がそうであるように。

カフェ・ブームがどうの、と言う数年前のこと。京都にとてもいい出版社があって、ものすごく cool だった。アート系の本を中心に手がけていて、どれも欲しくなって困ったものだ。新聞である日「フリペあげるよ。欲しいひとはここまで連絡してね」な広告を見かけて、申し込んだ。フリー・ペーパーとは思えないゴウカなつくりに嬉しくなった。「無料でもこんだけのことができるんです、という矜持だ、地方(まあ何だかんだ言っても知られている出版社の大半は東京に社屋を構えちゃってるわけで、それ以外はとりあえず地方扱いという見方はまったく無いとは言えない)だってこれだけのことができるんです、という自負だ」とイタく感動したのだった。
……まさか計画倒産で消えるとは思ってなかったけど(業界では有名な話だそうで。私の好きなとあるプロダクション?は大層迷惑を被ったらしい)。
で。フリー・ペーパーやフライヤー、無料のポスカが雑貨店なんかで配布されていて、若いから経済的には富裕とは言い難いけど元気とやる気と創意工夫で乗り切るぞーなひとたちが楽しそうに「自分」を発信しているらしいということを知って、「やはり文化都市よのう」とわかったようなわかってないような気分になったものだ。

可愛くておしゃれでちゃんと美味しいカフェ・ベーカリィ、「ヴィレッジ・ヴァンガード」的に何でもありなんだけれど、雰囲気としてはある意味対極にある、オトナで風情ある、本好きなら誰もが知ってる(……何せドがつく田舎に住んでる私ですら知っているのだ)「恵文社一乗寺店」(サイトがまた一段とおしゃれに、シックになった)を始めとするシックでオトナな文化発信地。文化系乙女にはたまらないラインナップでこれでもかと行ってみたいお店(そして、これは実際に京都に住んでいるひとや京都を知っているひとから情報を募って記事が書かれたのだった。詳細は雑誌の公式ブログにて。ここで実際に情報を募集し、たくさんの情報が寄せられた)がこれでもかと紹介されているのだった。文化系乙女必携の京都MAP。お約束的雑貨屋さん(こういうのは、まあ某「ザッ○カタログ」なんかでも取り上げられているのでヨソの地方に居る人間でも知っているわけだけれど、京都に住まうひとたちが「やはりハズしてほしくない!」という思いを込めて紹介してくれているわけなので、こちらとしても「そうでしょうとも!」と嬉しく拝見するのが美しいのではないかと。「今更」とか言うのは野暮だ!)も満載ですし。いや、文化系男子もゼヒ。

表紙にも登場している着物の記事もあったりでイイカンジです。「spoon.」は運良く創刊号から出逢ってずっと講読してるけど、ハズレがなくて楽しい。自分が知ってるモノ・コトも登場すれば、知らなかった世界もするんと同じテンションで扱われていて心地いい。そういうわけで、最新号の楽しみであることよ。
Amazonでもすでに予約開始。内容・特集については公式サイトでチェックぷりーず。
spoon. (スプーン) 04月号 [雑誌]
って! 特集まんがでしかもメインは「ハチクロ」!? ど真ん中です! 直球です! それ故にどう料理するかが見物だ、「spoon.」!
Pez: A Little Collectible Book (Little Books (Andrews & McMeel))
Marie T. Morreale E. H. Wallop
0740714430

やっぱりあるんだな、コレクターによるコレクション(の写真&デエタ)と蘊蓄満載の本、てのは。いいよなあ、楽しいよなあ♪

20050215213453.jpgよく行くモール内にある輸入食材のお店で、こんなものを見つけて、……買ってしまいましたよ。またですよ。「役に立たないがココロ惹かれるモノ」とゆーヤツです。やっちまった。おまけにこれ、結構高いんでやんの。確か本来は¥800いくら、つーのが¥600いくら(……どっちも大雑把ですよ、紫堂さん……)で。たっけえな! 写真がチャチなのでアレですが、これはまずパッケエジ(ブリスタ)入りの状態のままで撮影したもの。
20050215213507.jpgこっちのはそのパッケエジの上部を撮影したもの。色が3色ありまして、ブルー(なんか魚か動物の模様入ってたと思う)、グリーン(お馴染みというかお約束で迷彩柄)、そしてこのピンク。……ピンクのだけ女の子の写真なの。……アメリカってそういうの、ウルサイかと思ってたけど、こうしてみるとそうでもないなあ。いや、ピンク=女の子色、とかいう既成概念みたいなもんは避けようとするのかなあ、と思ってたものだから。ベタ路線もまだまだ顕在ですな。
で、ですね。これ、一応PEZはPEZなんです。ちょいといつもと違うのは "Cool School Tool" と銘打ったモノで、通常のヘッド+タブレットを入れるボディ部分にわかれるあのお馴染みデザインではなく、「PEZディスペンサーにしてオサレなステイショナリィにもなっちゃうの♪」仕様である、というところ。きゃあああ、「何の役にも立たないが可愛いかもしんねえ、つか買いだろ、買えよ、でも何に使えるんだよ、つかおめえトシ考えろよ」と瞬時に己にツッコミ入れさせる可愛さよ!(……いや、意味解りませんが……)てなわけで(?)見づらいけれど本体拡大図。
20050215213521.jpgちょいと bird's eye view 視点で撮影したので解りづらいかと思いますが、向かって左のピンクの濃い部分、ここがPEZのホルダ(あ。やはりディスペンサー、が正確なんだろうか。パッケエジの英語表記では "Candy Dispenser" なのよね)部分です。もっとも濃いピンクの部分、ここを指で後ろに押すとPEZがにょい、と一粒顔を出すようになってる。ここを引き出して補充するわけです。向かって右の部分はマジック・テエプで開閉可能になってて、ここにタイム・テエブルだの電話番号メモだのがみちっと詰められてます。銀色のリングの左隣にあるのが定規。その隣に鉛筆と、細長い消しゴムが入ってます。銀色のリングにはベルトなんかにひっかけられるようにフックがついてます。まあおっされー♪

いかにもこう、小さいコなんかにウケそうな。小学校の低学年くらい…かな。でもって、小さいが故にほとんど役立たずです(笑)。ああでも、定規は思ったよりいいかも。使えなくもないもの。ケエスの裏に簡単な摂氏と華氏の対応表、長さ(キロメートルとマイル)の対応表がついてるのには感心したぞ。意外に便利だ(笑)。内部にPEZ1本(? 1…なんだ? 1パック??)常備できるよう、専用ホルダ部分があります。うわ、すっげかっきぃ。ちょーヤバくね?(←平板アクセント推奨)。ははは、流石だ。
ふだんの私なら迷わず全色コンプという偉業馬鹿をやらかすのだけれど、今回はおとなしく1種のみで。ああ、やっぱ迷彩柄もよかったなあ(後日買いに行きそうなのよ、止めて私の理性!←ないものに期待しても駄目だと早く気づけ)。

ちなみに、「フツウの」PEZなら、"The SIMPSONS" 家族全員、てのを持ってます。九州の友人が「見かけたよー」とお店で見つけた3つをプレゼントしてくれて(ちなみに、5人家族のうちの、娘ふたりが欠けていた)、後に地元で残り2つを自分で購入、めでたく一家揃い踏みとなりました。PEZファンなのではなく、シンプソンズが好きなので。可愛いよん♪(未開封のままはや数年……中に入ってるPEZはまだ食えるのか!? 果たして私はチョコレイトに続いて暴挙に及ぶのか!? 待て次号!←ナイです。冗談です。でも多分いつかやらかします。確実に

でもって、楽しいのが公式サイト。アメリカの方のペエジ(TOPの向かって左側、ですね)を見てみたんだけど、コレクターさんの写真を募っていて、それを公開してる。これが何とも楽しいです。こぢんまりしたコレクションから壮大なコレクションまで、でもどのひとのを見てもキレイにディスプレイしてあったりで見応えアリ。どんなに他人から見ても馬鹿げてると思われるようなものであろうと、堂々と、しかも楽しそうなところがいいですなあ。キレイに飾り付けるにしても、執念…じゃないや、愛を感じるぞ。販促用ディスプレイ棚なんてどうやって手に入れておるのであろうか。やはりコネだツテだカネだと頑張るのでしょうか。「愛が深いと病も深い、ついでに言うなら業も深い」とは私のコトバだ。うむ、なかなかに至言である(自画自賛。というより冷静なる自己批判という名の皮肉)。

日本でもすでにリッパなコレクターズ・アイテム。ますます色んなアイテムが増えるんでしょうねえ。「くーる・すくーる・つーる」は公式では写真の一部でしか見られなかったわ! どこを探せば出てくるんぢゃ!(いや、まあ、デエタがあったからってどう、ということもないんですけど。ヲタクの習性でして)
……オレ的レア・アイテム、ちうことにしておきます……。いやもう、ホントに、何にと言って使えるシロモノではないんだけど(笑)。でもその無為・無用なるところに愛を感じるのでありました。ムダに凝った造型とかね、楽しいです、はい。
こういう人間がいる限り、浜の真砂は尽きるとも世にこれくたあのタネは尽きまじ、というもので御座いますよ。ええ。
一時期流行った(…のか?)スピン・ポップでしたっけ、pop sucker を口の中で回転させて食べられるというしょーもないけど楽しいアイテム。ああいうのとか、今回のコレとか、こういうしょーもないモノ作らせたら天下一品です、アメリカって(PEZのキャンディ乃至タブレットそのものの歴史で行くなら1920年代にオーストリアのナントカさんが大人の禁煙補助のための砂糖で甘味をつけたミント・タブレットとしてつくった、てとこまで遡るらしい。PEZはその頭文字をとった名前だとか。ディスペンサー云々は1950年代以降アメリカに入ってきてかららしい、んだけど、不勉強でよくわからないです。これまで勝手にアメリカ発だと思い込んでいた私であった。あれですね、ガイジン=あめりか人、みたいな古いヒトの発想に近いですね。情けない)。

見てると欲しくなる。PEZそのもの、というより、この本自体を、ですが。
Collector's Guide to Pez: Identification & Price Guide (Collector's Guide to Pez)
Shawn Peterson
0873495403
YSN チョコレート工房 ブラウン 1531
B000EOLR68

「う゛ぁれんたいん」。それは私にとっては同じ場所で一緒に居る友人・知人・仲間に「いつもお世話になってます」とはばかりなく言える便利な日(いえ、その、いつでも関係なくお礼を言うべき時は言ってます)。お歳暮とかお中元に近いノリ。……なので昨今耳にするようになった「友チョコ」とやらに多分在り方がいちばん近い。同性異性関係なく差し上げて「いつも色々ありがとうございます~」などと言ってまわっているのだった。決してろまんてぃっくな日ではない。それはそれでどうなんだ、と思わないでもないがイヴェント頼みの恋をするような若さもすでになく(……思えばそれは高校生の時ですらすでに感じていたような気が……↓)。
ただ、チョコレイトを「選ぶ」のだけは、関係なく楽しい。誰にはどういうのをあげようか、と「悩む」のが楽しみ。ウケ狙いでいくか、味優先でいくか、はたまたパッケエジだのネエム・ヴァリュのごーぢゃすさで選ぶのか。予算とあれこれ相談しつつ、「コレは○○さん」「これは××くんだ!」とひょいひょいカゴに入れてレヂまでゆく。どうでもいいがどうして予定人数分以上の数がカゴの中にあるのだ自分。お前はどうしてそうパッケエジだの何だののためにカネを(以下略)。

ただ、反省というか、後悔というか、申し訳ない気分になるのがどうにもいかん。それが「ほわいと・でー」。あげる側(とりあえず私)は自己満足なわけですな。でも、もらった側にしてみれば、まあ本来の Valentine (と言っても「日本におけるう゛ぁれんたいん」、だけど)の意味合いを持ったチョコレイトであるなら、純粋に嬉しかったりするだろうけれど(特に、自分も相手に好意を抱いていた、とかの場合)、こういう「いつもすまんですのう。これは世話になっとるお礼のシルシですぢゃ」と渡されちゃったら、「もらっちまった。こりゃ来月お返しせないかんわけやな」と思わせてしまうわけで。いつもビミョ~~な気分になっているのも事実なのであった。……そうしてみると、自ら私は悪習をつくりあげてるようなものなのかもしれないなあ、と思わないでもない。
「気にしねえでただ『うまいなー』って食ってくれればいいんだけどなあ」。
そう思っていても、義理堅い兄さん姉さん友人たちはひと月後、きっちり可愛いキャンディ・ポットだクッキィの詰め合わせだペアのグラスだとあれこれくれちゃったりする。
「あ~~~、……ありがとうございます~~~いや、その、お返しとか、気になさらなくていいんですよ~~。私がいっつもお世話になってるんで、イヴェントにのっかって差し上げてるだけですから~~」
と言っても「いや、たいしたもんじゃないし。ま、食ってやって」などと言われてあれやらこれやら手渡されてしまい。結局「お礼」にも何にもなってねえんでやんの、な展開になってしまうのであった。

「いただいたらお返し」。ああ、日本人的(ある種の)美徳。そこにミゴトにつけ込んだ菓子業界。むむう。確かに自分も頂きっぱなし、は抵抗感じるしなあ。
そこ行くとかつての友人はすごかった。
「っっかー!! 会社の野郎全員に義理チョコ配らなきゃいけないんだよ! あー、ヤダヤダ! カネのムダだっつの!」
と絶叫し、一ヶ月後
「お返しに、結構いいもんもらっちゃったー♪ ちっちゃいけどさ、ブランドもんのバッグくれたよー。トクしたなー」
と言い切った鬼のような女…。コワー……。海老鯛カマせたから喜ぶ、というこのわかりやすさ。男性も男性で見栄の張り過ぎで気の毒にねえ。しょぼいもんもらったからってしょぼいもん返せないのはこれまたツライのう。

気づけば私の周囲に「ろまんてぃっく」なう゛ぁれんたいん、はあまり存在していなかった。
「え、ちょこ? 自分で買って食う~♪ せっかくオイシイもの、あげるより自分で食べた方が楽しいじゃーん♪」
……うん。私もソレが正しいと思う(笑)。ああ、「一緒に食べる」仲良しかぽー、ていうのはいたなあ。それはハタから見ていても和む。うむ、仲良くちょこを食むがよい(アンタ誰だよ)。

福田里香チョコ+スイーツ×ラッピング
福田 里香
4140331887

この本は多分、世間一般の「この日に賭けるわ!」なお嬢さんたちの一部にはとても役立ってくれるかと。でも、見てると「あ、こういうのもアリか」とか純粋に楽しんじゃって誰かにつくって贈る、どころではない。可愛いなー。さすが福田さんだ、ヴィジュアル系料理本=少女まんが説のブチあげるだけある。試してみたいなー。でもあげるのもったいないなー。というより料理あんまり得意ってわけでもないなー。

……などとヌカす前にあげたくなるような相手を見つけ(以下略)。
Valentine Things to Make and Do (Usborne Activities)
Rebecca Gilpin
0746064977

ヴァレンタインには縁がない生活をかれこれ○年過ごしている(はっはっは)。が、あの売場を見るのは大好きだ♪
パッケエジが可愛いのがあったりすると、つい買ってしまったり。チョコは何時だって食える。でも、トクベツな仕様になってるものはやはりこの時期に限る訳で。

欧米でのヴァレンタインを体験してみたかったなあ、といつも思う。友人や家族とのやりとりもフツウなので、カアドを贈ったりと「一緒に」楽しんでいるらしいし。特別な何かを用意するのではなくて、日頃の気持を込めてちょっとしたものやてづくりのカアドを贈り合う、というのが微笑ましい。

で。洋書を探すと、ヴァレンタインの activity ものの本、というのが結構見つかる。子供と保護者が一緒になって楽しむ、んだろう。いいなー。
男にチョコくれてやるだの義理がどうのとは無縁の年中イヴェント。そっちのが断然楽しそうだ(散財も控えめになるだろうし↓)。

小さなお祭りとして楽しめるのがそういう本から伝わってきて、眺めてるだけでも楽しい。

などとヌカしていたらチョコレエト食いたくなった。結局食い気かよ↓
はじめての茶の湯―茶道の基本がよくわかる
北見 宗幸
4415028888

「TVを観てたら『茶道』を『ちゃどう』と発音していた。恥ずかしくないのか」と書いている記事を見た。

いや、「ちゃどう」でも別に間違いではないと思うんだけど。

その番組はかの有名な骨董・蒐集物の鑑定モノで、故に、モノの歴史を慮って敢えてその読みを使ったのではないかなあ、と私などは思う。だがしかし、「私は物知りなのよ!」と言って憚らぬ性格らしきそのヒトは、大して確認もせずにそんなことをブログ上の記事としてUPしていたのであった。

今一般的には「さどう」なだけで、「ちゃどう」でも間違いではない、んだけどなー。辞書見ればいいのに。目の前のハコはもっと手っ取り早いよ、おばちゃん……。
そのヒトは、以前もそのよーに勘違いと思い込みのまま記事をUPしていたので尚更見ていて恥ずかしかった。

勿論、「え、『ちゃどう』でも《間違い》ではなかった筈では?」と思った「だけ」ではそのおばちゃんと同じ穴の狢になっちまうので、ちゃんと(セコくも・笑)辞書で確認したんだけれど。

誰が見るともわからない場所であれこれ表明する、というのは、そのよーに恥をかく機会も得てしまうものだよなあ、としみじみ。
そう言いつつ、過去記事何となく読んでたら文章に文法上の捻れを発見してしまった↓ 
「ひとのフリ見て我がフリ直せ」。うむ。まったくだ。
刑事コロンボ コンプリートDVD-BOX
ピーター・フォーク
B0007LXPIQ

いえね、あたしゃどうかと思うんです。廉価版一枚ずつ買うより安くついちゃうんだから。ね? そりゃどうか、って思うでしょう、フツウ。そりゃあたしゃいいですよ。ただね、ウチのカミさん、そういうの煩いもんでね、気になっちゃって。

……とかわけのわからん愚痴のひとつもこぼしたくなる大貧民がここで何やら喚いているわけですが。
「ポアロ」のだって欲しかった。「ホームズ」のもコンプのBOXリリースされた時は狂わんばかりに欲しかった。推理モノ楽しめるいちばんのコツつーか秘訣つーかポイントてなあ「記憶力の欠如」、これです。ワタシ、ソレピタリ合ウネー!(悲)
子供の頃から(そう、小池朝雄氏が声をあてていた頃からだ!)大好きだった「コロンボ」シリィズ。何度TV放映されても私はその都度観て、その都度楽しめた(お馬鹿は記憶力がないので何度でも楽しめるんだってば! …って、「コロンボ」シリィズは物語としても楽しめるし、それぞれの人物造型、特に犯人の心理描写なんかもそれ単体で十分に楽しめるんです。ええ、言うまでもないことですが。あと、昔のヤツまんまだと、ちょっとだけフィルムの色がオレンジ色がかってて、そこも味わいがあって好きだった。これまでリリースされてきたDVDはリマスタとかされてるのかしら?)。しかし最近はあまり放映もされず(とりあえず地上波では。デジタル放送とかケエブルTVとかWOWOWは知りませんが)、「新・刑事コロンボ」がやっと観られる程度で。ああ、いつと指定されず心ゆくまで「もうひとつ。ね、もうひとつだけですから」だの「いや、参ったな。いえね、あたしもそこが気になってんです」なんて台詞を聴きたいんだー!!
そこ持ってきてアナタ、コンプリートBOXですよ。それも、コツコツ1枚ずつ買うよりまだ安くつく、という。うおおおおおおおおおう! 欲しい! めちゃめちゃ欲しいぞ! おう、ねえちゃん、ソレ、ナンボや! おっちゃん買うたるわ! って、だから今ならあまぞんで¥21,000なんだってばよー! 欲しいー! しかしそんな出費が許される状況じゃねー!
……と、大貧民が魂の叫びを(以下略)。

ああ、でも、欲しいなあ。「コロンボ」マラソン(※続き物等を延々見続けることを「マラソン」と呼んでいる。例:「銀英伝」マラソン。かつて友人と「銀河英雄伝説」のLD←紫堂所有。を観倒そう、とプロジェクタまで使ってふたりだけの大鑑賞会を催したことがある。……朝日が目に染みる……楽しいけど。でも、友人爆睡。この根性ナシめ! 最近は「聖闘士星矢」マラソン完走に向けて爆進中。でも原作ネタを食いつぶさないためのオリジナル・エピソオドのせいで死ぬ程ダルい展開が! 心臓破りの坂の如し! この~坂~を越えた~なら~♪ ←かなり疲れてる)開催したいわ。「ウチのカミさんがね」を死ぬ程聞きたいよー(どんな願いなんだ、それは)。
消えたもの、はデエタ。Amazonのカートにぶちこんでおいた保留品約230点。ある日突然消えてました。……やられた……(涙)。一応問い合わせをして、原因として考えられること、とやらを尋ねてみたものの、どれも該当せず。前に他社であった突然 cookie が、てヤツかしらねえ。サインアウトなんて一回もしたことすらねえよ、あまぞん!
でも、新たにイヤガラセのよに思い出せるもの、新たに発見したもの、をぶち込んでゆくことにしたのであった。くそう!

消したもの、はぶろぐ。「Daily Junks」、今日の午後5時台だったかな、登録抹消しました。何だかすっきり。一応今までリンクして下さっていた方に向けての移転先明示が目的で残してあったけれど、正直1月末を以てとっとと消してしまいたかった、な。だってあれ、単なる未練のカタマリじゃあないですか(恥)。去ると決めたらとっとと去ね! と思ってもいたので、何というかようやく少し落ち着きました。
半年とちょっとで最終的には10,355カウント。私風情が書いたモノにしては上々と言うほかない数字です(もっとも、その大半が語彙検索で何らかの情報を得られる、と期待なさってのアクセス、であったかと思うので、多分お役に立てることもなく、申し訳ないなあと思うわけですが。ええ、何せネット上の情報の9割以上、ゴミですから。有意義なゴミであったことを祈りたいものでして・笑)。

というわけで、これまで御愛顧(?)下さった皆様、ありがとうございました。私はこれまで通りこの庭でのほほんと。

さて。また執念深く、散らばった記憶を投網でたぐり寄せながらあまぞんのカートに放り込んでおかなくては。違うところにもデエタはキープしておけばいいのよ、とあまぞん様からも言われました。はい、信用し過ぎはヨロシクナイ、ということですね(涙)。

そして、選んだのは、彼女。
The Phantom of the Opera [Original Motion Picture Soundtrack]
Andrew Lloyd Webber Simon Lee Alison Skilbeck
B000654YWY

※サントラ版は日本版にしろ、輸入版にしろ、ブックレット内に英語詞は掲載されていません。日本版だと日本語の訳詩が掲載されているそうで、原文はないらしく。歌の歌詞も知りたい、見たい、という向きには、多分「ロンドンキャスト版」あたりがいいかと。でも、掛け合いになってる部分以外は比較的聞き取りやすい英語だしさほどテンポも早過ぎないので、それなりに英語詞も楽しめると思います。


友人と一緒にようやく観に行って参りました。「オペラ座の怪人」。やっぱりこの作品好きなんだなあ。何回観ても同じところで泣ける自分がいる。「んー? 今回は泣かなくて済むかなあ」などと思っていたら自分の中のお約束シーンでアホほど涙を流していたのであった。

この映画に対してのもっとも野暮でつまらない感想というのは「ミュージカル(生演奏・演技)には敵わない」というヤツだ。……そんなん当たり前やないかい。しかし、生本番にかける役者の「本気」も「真剣」なものであるなら、映画で撮影されている間の役者のそれとても「真剣」なもののはずなのだ。簡単にどっちが上、とか言い切ってしまうのはどちらの役者にも失礼というものだろう。でもって、映画ならではの部分を楽しまなくてどうする。そもそもそんなわかりきったことをヌカすくらいなら舞台「だけ」観てればいいのだ。
とは言うものの、生の素晴らしさも堪能したことのある私なので、やはり色んな意味で身構えていたところがあったのだけれど。
面白かったです。私は楽しめた。

モノクロの「現在」から豪奢にして絢爛たる「過去」にひといきに遡ってゆくシーンはやはり鳥肌モノ。いい。ヘタすると私はここでもう涙ぐむ。オルガンが鳴り響いてシャンデリアが…というそのシーンだけで。
舞台ver.だとここで一気に私たち観客もまた「過去の一部」になれるところが粋なのであるが、このあくまでも見守るしかない立場でするすると過去へ、戻れない時間へと変化する様を具に観られるのはなかなかの快感。

久々にこの物語に触れたわけだけれど、私、この「オペラ座の怪人」(ルルー作品としての、ではなく、ロイド=ウェバーの作品として)が何で好きか、よーくわかった。
「エロいから」。だから好きなの。

……ああ、エロい、だと上品かつ見識の高い方には下品だと怒られますね。言い直しておきます。官能的で淫靡であるが故に、とても好きなんだなあ、と改めて思った。しかもそれがとてもせつない上に美しいのですね。そこが好きなのです。

2人の男、ひとりは幼馴染みの若者、ひとりは自分に音楽という歓び(快楽)を手ほどきしてくれた(…って言うと、……少しばかり、ねえ?)壮年の男に同時に(まあファントムはずっと昔から想いを寄せていたのだろうとは思うけれど、あくまでも青年ラウルと「恋」が生まれてもおかしくない「今」になってから彼女の前に「肉体」を持った「実在」する「ファントム」「音楽の天使」として目の前に現れる辺りに、ある種の生々しさがある。それまで慈しんできた蕾が目の前で摘まれようとしているのを見ていられなかった、とも取れるし。誰も彼女に手を出さなかったら、……彼は何もせずに見守るだけの愛とやらをまっとうできたのだろうか?)愛されるヒロイン・クリスティーヌ。彼女は清純にして無垢なるが故に両者を魅了する。ファム・ファタルなのかもしれない。
彼女は大抵白い衣装を身に着けている。群舞のダンサーのひとりに過ぎなかった彼女はある意味で「女」ですらなかった。群衆の中のひとりであると同時に、少女。幼馴染みのラウルに彼女は一目で気づいたのに、ラウルは彼女に気づかない。それが白いドレスを身に纏い、高らかに歌を歌い上げて初めて誰の目にも「唯一の」存在として出現できる。ラウルが気づいたのも彼女が唯一の女性、プリマドンナたる存在として登場してからようやく、である。
白いドレス。それが彼女の内面の美しさだとか清楚さを表してもいるとは思うんだけれど、……「私服」とは言い難いものがほとんど。舞台衣装だったりファントムが用意したドレスだったり。彼女が自ら好んで身に着けた、と言える衣服がはて何着あることか(ちなみに、かのゴージャスな「マスカレード」のナンバーが流れるまさに仮面舞踏会のシーンでの彼女のドレスの色に関してはパムフレットに興味深い記述があるのでお楽しみに)。いや、何が言いたいか、ってね、無垢をも象徴する白い衣服は自分の意志で纏っていたことがあるのか、というね、そこんとこです(もちろん、我が儘なプリマドンナ・カルロッタとの対比としても必要ではあるんだけど。カルロッタは華やかでハデな色のドレスや小物がほとんどだし)。
それから黒髪。白いドレスに映える色だと思うし、存在感もあっていいわけだけれど、…… fair なイメエジの金髪ではない、というのも私個人にはなかなかオイシイ。黒髪、ブルネットは蠱惑的な印象を与える(欧米人にとっては。赤毛なら勝ち気、金髪なら天使のように清純、みたいなお約束めいた「抱かれるイメエジ」というものが決まってる)。清楚で無垢な存在(何せ彼女は「音楽の天使」の存在をすんなり受け入れることができていた、 innocent な女性だった)でありながら、長く艶やかな黒髪を持つ乙女。大人になりきれていないあやうさと愛らしさ。ニンフェットとしての美も持ち合わせている気がする。

夢心地のままファントムにいざなわれ、地下水路を小舟でたどるシーンは幻想的で美しい。……この地下でのシーンはとても美しいのと同時に淫靡な雰囲気が漂う。退路を断たれた場所、意識は半ば朦朧とし、美しい音楽と闇に包まれて、ふたりきりの悪夢のように美しい空間で、ただ睦言のような歌を互いに奏でる。ファントムは意識の判然としない彼女を優しくベッドに横たえさせ、その寝顔を見つめるだけに留まる。
……ああ、エロい……じゃねえや、せつなくて、とてもとても、……淫靡な匂いがする。

そこに彼女が居る。手を伸ばせば届く。花唇をふさぐことも、その肌を蹂躙することも、多分彼には容易くできたであろうに。彼はただ彼女のみに横たわることを許したであろう特別な寝台に眠らせ、ヴェールで覆ってしまうのだ。
誰にも触れさせず見つめることも許さぬまま、ただ己の手中に収めるだけ。触れたら壊れるとでも? 何かが終わってしまうとでも? ……せつない。

オペラ座に起こる不思議な出来事、不気味な手紙の到着と脅迫、そしてかのシャンデリア落下事件――ファントムの狂気、あるいは情熱、それとも愛情かもしれないもののために人々は翻弄される。

"Phantom of the Opera" を別格にすると、私がいちばん好きなナンバーは "Point of No Return" なのだが。これがまた。これでもかこれでもかとせつない上に官能的。
ファントムが指定した演目「勝利のドンファン」上演中に、ファントムは人知れず役者と入れ替わり、舞台の上に立つ。自分が育んだ歌姫とともに。
舞台の上、衆人環視の元、熱の伝わる掌で彼女の肌に直に触れるのではなく、手袋越しに衣服の上からその手は愛撫するように動く。耳元で囁くように、それでいて誰にも届くように高らかに歌うのだ。
「もう戻ることはできない」。
ファントムも。クリスティーヌも。ラウルですら。誰も。
何も、なかったことにはできないのだ。彼の瞑い情熱と狂気故にひとが死に、美しかったはずの記憶は血塗られたものと化し、闘いと諍い、若さ故の真摯さと諦観から生まれた熱情。

クリスティーヌが誰を、何を選び、どんな人生を送ったのかは、とりあえず物語を知らない方のために伏せておこう。
ただ、あの瞬間、確かに彼女は確固たる感情のままに、自分を愛してくれる男の前で、とても純粋でとても……誤解を恐れずに、あるいは私の思うままに述べるなら、……淫らな自分を露わにする。
それがファントムにどれほどの何をもたらしたのか。私はいつもそのシーンで涙が止まらなくなる。

開ききらぬ赤い薔薇に結ばれた黒いリボン。物語のアクセントになっていて、舞台とは違う意味でファントムのファントムたる所以を見せつけられ、せつない気分を抱いたまま、ニヤリとさせてくれる。あるいは、幾ばくかの…不安。それか、狂気。妄執。

「あなたの声で私の花が開きはじめる」

これほど美しくて濡れた惹句は、近年目にしたことがない。

以下は、私見雑感少々。よって読んでみたい方のみどうぞ。

ダメ・カモーネぬいぐるみ
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いいです。このやる気のなさ全開の名前からしていいです。可愛いです。枕元に置いておきたい逸品です。にくったらしいヤツの名前を綴った名札つけてあんなことやそんなことをしたくなるではないの、ダメ・カモーネ(お客様、釘は御遠慮下さい、釘は!!)。可愛い、可愛いよダメ・カモーネ(キモイ)。

ダメ・カモーネ……。ダメ過ぎるだろ、もう。でもそこが素敵(はぁと)。う゛ぃぢゅあるからして私好みだ。胡散臭そうでもふもふしてそうで。目元も口元もどこもかしこも好みだ。そういうわけで一匹自宅に拉致監禁したい私であった。
それにしても何だな、ぬいぐるみほど何に役立つでもないクセに欲しくなるものもないな、私にとっては。いや、私はそもそも無用・無駄を愛する傾向が強いのだが。
ああ、可愛いなー……(恍惚)。
本棚探偵の冒険
喜国 雅彦
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またしても「本」の本である。同時期に買ったのもあって連チャンで読んだ。これもまた面白い本で、買って損無し、お買い得の逸品であった(……読んでみたけどつまんないよ、と言われても私は責任を負いませぬ。どこまでも主観でしか感想は綴れませんので、ヲホホ)。

喜国氏のまんが(名作の通称「傷天」こと「傷だらけの天使たち」ね)は堪能したことがあったけれど、「文章」は初めて。軽やかで勢いがあって、どこか初々しさがあるけれど、読みやすい。しかも笑いを取りに来ることは忘れない。さすが。でも、まんが書く才能あって、文章まで、ってなんかズルイわ(僻む僻む・笑)。好きな作家のひとりに大谷崎(やはりおおたにさき、と読むのが通だろうか…)を挙げるあたりがまたシブイではないか。
月刊ミステリ雑誌「小説推理」に連載されたエッセイをまとめたもので、最初はこれでもかと惜しみなく技術と労苦を注いだ豪華装訂ハードカヴァver.で発行された。これがまた古本マニアにはたまらない仕様で、初版は(部数限定、ということもあり)あっさり完売したのだそうな(どんな風に「凝って」いたかは Amazon のレビュウ等で御確認下さい)。今時パラフィン紙に著者検印だあ!? やりやがったな、である。ちなみにこんなの↓
本棚探偵の冒険
喜国 雅彦
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この何とも言えぬいかがわしさが、彼が愛する横溝や乱歩が活躍したころの「探偵小説(推理小説、ではない)」が持ついかがわしさ(当時はそういう認識が持たれてました。イロモノ扱い。雑誌「新青年」なんかもその最たるものだろうけれど、そこに御大・大谷崎も「探偵小説」などを寄せていたのであるからして面白さも倍増というもの。この本の中でも語られてますが、この「新青年」、今買おうと思うなら、それなりの出費を強いられます。単純に古書だから、というだけではないの)を醸し出していていい出来に仕上がってる。基本は愛と情熱だ♪

で、今回私が読んだのはその文庫版。やっと文庫になってくれた。嬉しい♪ 文庫にしても結構な厚みで、読み応えがある。でも重くなく軽妙な語り口で時折(というかしょっちゅう)お馬鹿を交えてあるので笑いながら「(多分)アナタの知らない世界」を垣間見ることが可能なのだ。ホントにお買い得よ、コレ。「本」が好きなら。装訂の絵がまた少しレトロにしてあるところがまたいい。おしゃれだし色遣いもキッチュで、でもどこか上品。わかってるなあ。

喜国氏は古本マニアだ。やはり野放図に何でもかんでも、というわけではなく、コレ、と定めて購入する。定まったモノがあるが故に東奔西走し、大枚をはたき、後に涙をのみ(古本マーフィーの法則として、「買った本は再び見つけるごとに価格が下がる」というのがあるそうだ…ちょっとオボエがあるな、ソレ……。いや、私の場合は何も稀覯本だの初版本だのそういったモノではないのだが)、嬉々として本棚に並べ、その見映えの美しさに酔いしれるのだ。……うむ。リッパなマニアだ。
江戸川乱歩氏の(ファンやマニアなら一度は足を踏み入れたい聖地にも等しい)蔵書が詰まった土蔵(彼もまた「正しい」書痴のひとりで、本という存在そのものを愛していたようにお見受けする。何でも本を借りるとパラフィン紙にくるみ、さらには丁寧に感想もつけて返したとかいう逸話をどこかで読んだ)を細君と京極夏彦氏、山口雅也氏らとともに訪れ、何かを見つけては狂喜乱舞したという話から本は始まる。もう、本が好きならこの冒頭で掴まれることウケアイなのだ(そうでない方もおられるでしょうが。おそらく、本が単なる「テクストをまとめた物理的かつ即物的存在」でしかない向きには)。
そこから飾るためだけにカッコイイ洋書ミステリを探し求めた話、そもそも集めるようになったきっかけたる横溝正史の小説群、デパートで催される古書市での熱く静かなるかけひきとバトル、他人サマの本棚を整え陳列・整理整頓にゆく話(この「他人サマ」は何とあの我孫子武丸氏である)、あるんだかないんだかはたまた開店してんだかしてないんだか判然としない幻影古書店、果てはこの世にない自分だけのトクベツを生み出すべく、生来の器用さを以て時には函をつくり、ある時は豆本づくりにトライする。……もうこれでもかと古本にまつわる楽しい話・馬鹿馬鹿しい話・オソロシイ話に充ち満ちているのであった。

好きなことについて語る時、どうしても文章が多少ハイになる傾向が私にはあるのだが(先日UPした、ゲエム「BIOHAZARD」について語る文章があまりに「楽しいよう、好きなんだよう」というキモチが溢れていて思わず苦笑した↓ ちなみに、腹を立てている時ほど私は淡々と、かつ冷静な文章になる。こういう輩は怒りが深く長く、ある意味「瞬間湯沸かし器」タイプより危険なので要注意)、喜国氏も少々そういった傾向がおありなのか、とにかく好きなことについて語れるのが楽しい、嬉しくてしょうがない、という雰囲気が溢れている。それでいて読み手を楽しませること、わかりやすさにココロを砕いているのがわかって、何とも楽しい。ああ、いいなあ。楽しいわ、コレ。

ミステリが好きなひとには私以上に楽しめる。ハヤカワのポケミスって、やっぱり固定ファンやマニアがついてるのね。ウチ、結構な数で初版本あるわ(父がミステリが好きなので。河出のシムノンのメグレ警部シリィズも多分ほぼ初版で揃ってるなあ)。そうか、私は密かに宝を抱えておったのか、とわけのわからんヨロコビにも浸れてなおよろし。
読んでると、やはり古典と呼ばれるミステリも読んでおかねば、という気持ちにさせられる。ああ、昔クリスティを文庫でコンプ、という野望があったのに、あったのに、ハヤカワのドアホウが装訂変えくさりやがった…(号泣)。なんだよ、あのありきたりでベタな写真はよう! でもって、ホームズなら今の新潮文庫ver.の装訂が一番好みだなあ(誰も訊いてねえよ)。あ、ポケミスならコレ↓も欲しかったんだった! 買うの忘れてた……。
ハヤカワ・ミステリ総解説目録―1953年‐2003年
早川書房編集部
4152085150

……とまあ、事程左様にミステリ・ファン、古書マニア、そして単なる本好きにはたまらない本、なのであった。
カラサワ堂変書目録
唐沢 俊一 ソルボンヌ K子
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……短時間で読めるのにこの充実感。面白かった。唐沢氏の本にハズレはないなあ。ちなみに、4文字の卑語が伏せられることもなく出てくるだけで眉を顰めてしまうような清廉なる方にはオススメできません(気になる方はやはり気になるものでしょう。もっとも、「そんなコトバ、10回も口にしてりゃ慣れる」、とかの上野千鶴子氏は言った)。

タイトル通りの本です。彼が所有している奇天烈な本を目録のように並べて、長すぎないエッセイを添えたもの。まず取り上げてる本が「ヘン」なので、それだけでスパイスが利いてる。加えて彼の当を得たツッコミが添えられていてなお楽しい。イラスト担当した奥方・ソルボンヌK子氏によるイラスト+ツブヤキのよなツッコミも面白い。

世間一般とやらが黙殺してきた、あるいは記憶から排除してしまった、でなければ最初から知りもしなかった(笑)奇書・怪書がこれでもかと登場する。で、彼は熱くなり過ぎることもなければ、クダ巻くこともなく、ただどのように、如何に「自分にとって面白いか」、周囲が「下らない」と一蹴する本にも何らかの価値があるのか、を軽妙かつ淡々と語る。

真っ当な(と世間――このセケンてなあ何なんだろうねえ――では思われている)本とてゴマンと読んだ上で、奇妙奇天烈な本の面白さを語っておられるわけで、そこらのシロウトの偏った読書(それは私、と水玻が言った@誰がヌカしたクソ御託)とは違う、のだ。
常々思っているのだが、何を読むか、よりも、どう読むか、どう読める本だと思うのか、それが本当なら重要なのではないか。
「よい本を読みましょう」と一様に繰り返すだけのひとがいるけれど、何が「よい本」か、なんて読んだ当人にしか決められないのだ。自分にとってつまらない本が他人にとってもそうであるか、そんなこと、言うまでもない(だから、自分のスタンスを明示できもしない人間が、賢しらにいっぱしの批評家気取りでボロクソにケナす「だけ」の書評・評論、というものは読む気がしない。唐沢氏は「CASSHERN」をダメ映画と断言しつつも、どこがどういかんのかをちゃんと明言していて、私は同作を結構楽しめたクチなのに、何らの嫌悪感も抱かず大笑いすらさせてもらった。ついでに言うなら「ダメなんだがイイ! と思えるポイント」が同じで嬉しかった・笑。ちなみにキィ・ワアドは「樋口真嗣」ね♪ もとい。つまらんもんを「つまらん」とだけ言うなら誰にでもできるんだが、そんな「誰にでもできる」でゼニをかっぱぐような真似をしないところがプロだ。てゆーかその感想、Web上の日記で拝読した、んだけど。つまり、無料。タダ。「日記」だから、御本人にとっては備忘録でもあると思うのだけれど、ちゃんと読み手の存在を意識して書かれているのがわかる。やはりプロだ)。
唐沢氏の場合、妙な本と向かい合い、熟読玩味した上で、如何にそれがズレているか、そのズレが何をもたらすか、自分にとってそれがどう面白いかを、短い文章の中で過不足なく語ってくれる。そのツッコミがまた面白いのだ(モノカキを生業とされている方に対して失礼だが、文章に無駄がなく、読みやすい上に面白い。そういえばオタキング・岡田氏も唐沢氏の文章を目指してるとか手本にしてるとか、そんなことを言っていた)。注ぐ思いは熱いけれども書く時は冷静かつ淡々と。そこらへんの塩梅とでも言うべきもののバランスが実によい。読んでいて不快にならない。クスリと笑わせるのも巧ければ、時に大笑いもさせてくれる。

この本、基本的にはとても面白い・笑える本なんだけれど、ちょっとだけしんみりしたところがあった。昭和10年代に出された「漾子”リリック・レター”シリーズ」。少女小説、あるいは令女小説と呼ばれたジャンル(吉屋信子さんの一連の作品群を代表とするタイプの小説)に酔いしれた当時の乙女たちに向けて発行された、一種の月刊誌だそうで、内容は読者からの佐藤漾子(「サトウ・ナミコ」と仰る。この本のイラストレエタア。←今回はヤケにこういう書き方がハマるわ…)先生へのファン・レタアや投稿によっても構成されているのだが、基本的にはこの漾子先生のイラストが入った便箋集だったらしい(イマドキの付録付少女雑誌でもレタア・セットは花形兼お約束だ…多分。先駆け的存在だったわけですね)。
当時はそういった世界に憧れて、自分たちもそういった世界の御令嬢よろしく、少々雅なることば遣いで手紙のやり取りをするのが流行ったそうな。実際に深窓の御令嬢ではなかったかもしれないけれども、そういった俗世からかけ離れた世界に遊離したい少女たちの乙女心を的確に掴んだ人気シリィズであったわけだ。
唐沢氏は、それを足蹴にして笑ったりはしない。時は戦争に向けて暗さを増すばかりの頃。夢なんぞ現実の前には踏みにじられてしまうその時にあって、必死に夢と憧れに満ちた世界に思いを馳せた少女たちの心情を察して胸の苦しさを覚えるとすら言っている。私も思わず少し泣いた。何ができるわけでもなくただ一方的に戦争に取り込まれて夢も憧れも簒奪され、中にはその戦争故に命を落とした少女もいただろうと思うと何ともせつない。

いかん。何だかわたくし、突然おセンチな気分になつてしまつてよ。許して下さいましね。

いかなる本であれ、それは「情報」の宝庫である。しょーもない、くだらない、と一蹴されている本の中にすらそれは在る。読み解けるひとにとっては、ちゃんと存在しているのだ。蒐集(収集)・整理・解析(分析)ができて初めて「情報」は真価を発揮する、と思っている。彼にはその能力がバランスよく、そしてそこいらに居るひとには及ばぬほどのレヴェルの高さで備わっているのだと思う(さらには、インプットが巧いだけでなく、アウトプットも巧いのだ。京極さんもこのタイプ)。唐沢氏の手元に集まった本は、そういう意味で幸福な本でもあるなあ、と思うのだった。
とか何とか、妙にカタイ文章で言うのはヘンか。面白いです。リクツ抜きで。「教養がどう」とかそういうもんに縛られず、純粋に「読む楽しみ」を追体験できる本でした。
数学はとにかくどーしよーもなくニガテなわけだが、何となく憶えてるのがある。でも、理解している、と言えるかは果てしなく謎。公式って言っていいのか、アレ。

  A=B、B=C の時、 A=C が成り立つ。

というヤツ(私の妄想? あったよね?)。これだけは「そりゃそうだろうね、うん」と思った。でもって、実生活に登場した唯一のものである。が、その登場の仕方にはかなり問題があるのであった(そこらへんが私の私たる所以だ……)。

WARNING!
 1:食事前の方は以下を読むのは御遠慮下さい。

 2:1を無視して読んだ場合、苦情は言わないで下さい(笑)。受け付けませぬ。


……ふと思ったんだけど、こういう時って "caution" と "warning" 、どちらがより適切なんだろう?

大変申し訳ないのですが、ゲエム・マニアな方には今更過ぎて、砂粒ほども面白くない話題ですので、スルーでお願いします。でもって、ゲエムに興味がない方にも楽しめない内容となっております。……警告、しましたからね。

サターン版バイオハザードオフィシャルガイド
ファミ通
4893667947

ここ数ヶ月どころか1年近くゲエムのハードに触れてすらいない。何てことだ! ひとり暮らしの頃はTVというものが占有できる状態であったので、ふと思い立てばいつでも起動させられたのに。……まあ、その方がいいのかもしれないけど。一度やり出すと止まらないからなあ。

最近再プレイしたくてしょうがないのが定番中の定番「BIOHAZARD」。それもあくまでもオリジナル。「2」とか「3」とか「こーど:べろにか」とかじゃなく第1作目(もっとも2作目までしかプレイしていない、というのはナイショです)。うああああ、やりたいー! 
簡単なモードでのクリアしかできてないヘタレっぷりだけど、そういうヘタレにも楽しめる余地をくれるところが好き(でも、ふと思ったんだけど、"Hard"だと男性キャラ・クリス、"Easy"だと女性キャラ・ジルで、後者の方が装備できる銃器等の数が多い。よって、回復アイテムと武器、両方そこそこバランスよく持って行動できる。つまり、ハンデが与えられてるの。故に、確かにクリアはし易い。ただし、体力的には女性故か少々低い/弱いので、死にかける確率は高い…んだがアイテムでLIFE値回復可能度高! だし。男性キャラだとできるだけ防御してLIFE値を落とさぬようにして乗り切って、武装にリキ入れるほうがベターらしく(攻撃の確実性を高めないといけない、わけで、私にはこれが困難であった…)。で。これ、アメリカ版だとどう表現されてるんだろう? とかいらんとこが気になる私。だって、その、所謂AVの類だって、時計できっちり計ったみたいに男女の「上下」が同じ時間配分だったりするのよって何の話をしているのだ、私は。ちなみに「2」では「ルーキー・モード」というのを選択すると、初心者向け・多少簡単にクリアできるようになってました。私はコレでしかクリアしてません。多分、通常のモードだとクリアなんて夢のまた夢)。

今やっても絶対! 燃える。続編や亜流のゲエムもプレイしたけど、やはりコレにはかなわなかった。元祖強い! 本家最高!(どっちだ!)
最初はSSでプレイしたんだった(……出始めの頃、サターンの方がメジャー視されており、プレステはちょっとマイナーあるいはマニアックだと思われていた頃が懐かしい……)。しかも中古ソフト屋で購入して(そこに愛はあるのかい?)。
始まりのちょいチープなB級ホラー調実写 movie が好きなんだよなあ。妙に凝ってるの。でもどこかチープ、という(笑)。いや、そこがいいの。で、男性(native)のちょっとハスキィで低い声が「ばいお・は・ざ~~~ど」と囁いて(?)くれる。もう、ここからものすごくワクワクする。夜ひとりで心臓ばくばくさせながらはぁはぁ言ってプレイしたですよ(←ゲエムとは違う意味で怖い)。
最初は操作(キャラの動かし方)に慣れなくて、その場をぎるぎるまわったり、思ったように動けずゾンビの犠牲になったり、と散々だったけど、やってくうちに慣れて、もう先に進みたくてしょうがない。
つくりこまれた世界観と物語、大小散りばめられたヒントや伏線、凝りに凝ってて先に進みたい、クリアしたいキモチがぶわーっと先走りする。でも creature がわんさと襲いかかってくるわ、わけのわからんからくりありまくりやがりだわ(そりゃもちろん、ゲエムを面白くするため、と手がかりを少しずつ得る楽しみ・苦労のためだが)で気が気じゃない。いつ襲われるかわからないやら次は何をすればいいやら、手に入れたアイテムは何に使えるのやら、謎・謎・謎でひたすらわくわく(でもってびくびく)してプレイしていた。で、それが何度やっても変わらないのだ。面白いの。
地図が読めない私なのに、あの3D空間を何度も行き来しているうちに、ちゃんと館の構造がわかるし(御存じない方のために一応。ゲエムはラクーン・シティなる町に異変が生じて、とある特殊部隊が送り込まれる。その時謎の生物に襲われて洋館に逃げ込むところから始まるのです)、どこをどう行けばどこに通じてるか・繋がってるかが把握できるようになってるくらい、しっかりした設定(私はせっかくのMAPも無為な存在にしてしまう馬鹿だが、このゲエムに関してはMAPを見れば自分の居場所が確認できて、次行くべきポイントがちゃんとわかりそこに確実に進むことができた、という奇跡を起こした)。
でもって、あちらこちら、グラフィックを確認してると、キャプションが出て「ここにはなにもない」とか「○○とかかれている」とか「なにもおきない」とかぽつりと表示される。時折そのキャプションが妙に不気味な雰囲気を醸し出してくれたりするのがまたニクイ。置いてある日記だの資料だの拾っては読みしていると、物語の筋や謎も仄見えてきて楽しいし。
必死になって難局をくぐり抜けては先に進んで、という繰り返しなので、とにかく「死ぬ」のが怖かった。セイヴしたポイントにまた戻ってイチからやり直し、コレ堪える↓ 本気でヘコんだ。失敗すればまた同じ恐怖を味わうのねー、と暗澹たる気分になる。……って、どうよ、この浸かりっぷり。
もちろん、攻略本用意してやりますとも。そんなナマヤサシイ、ゲエム初心者にさくさくできるような作品ではありませんでしたし。そして、いつもいつもベスト・エンディングにしがみついてしまって、見たことがないイヴェントもたんまりある……たまにはベター・エンド、バッド・エンドも見ておけよ……。
サターン版をやりまくって後PS版(デュアル・ショックver.って、当時は画期的だったよなあ……)もやって、コントローラーの操作性が違うから戸惑いつつも、またもがっつり攻略本買ってぜーはー言ってプレイしてました。

グラフィック、今のゲエムに比べたら見劣りする点もあるし(やはり粗いのだな、全体的に)、素晴らしく美しいわけではないけれど、でも、怖くて面白くてサイコーに好き。「2」なんて明らかにグラフィックの美しさだとかUPしたけれど、「2」はザッピング・システムなる形式を採用、プレイヤーは2人居るキャラのうちどちらかが選べて、そのキャラでゲエムを進行させるんだけど、必ずあるポイントで双方交わり合ってひとつの物語になるものだから、いささか冗長なカンジ。面白くないわけじゃないんだけれど、 original に比べるとテンポの良さではちょい下(私にとっては。クレアとレオンという2人から選べるんだけど、結局クレア編もレオン編もやってしまうのよ、基本のストーリィは同じでも! むきーっっ! グラフィックが美しくなった分、建物の中をじっくり観察したりするのはとても楽しいです)。
イヴェント発生時にはキャラクタア同士会話するのですが、これ全部英語、つーのもよかったです(通常のバトル・モードだの探索モードでは音声はナシ、です)。字幕が出るの、ちゃんと。台詞は native の方担当で。ゲエムの始まりに入る物語導入のためのキャプションも英語で(日本における声優のレヴェルは低いものではないけれど、時と場合によっては「そのアニメ声はヤメテクレ」「おまいさんの声を楽しみたいのではない、ゲエムを楽しみたいんじゃ!」な時があるので、名も知らぬ native のにーさんねーさんらが声当ててくれてたのは大変宜しゅう御座いました)。
ああ、じっくり時間かけてまたプレイしたいなー。ドアが開く瞬間、どこにゾンビ何体居るか、とか全部知ってるのに。怖くて面白いんだよう。

昨日記事書きながら、ああそう言えば、と。学生時代、英語の教員が言ってたわ、と。

キャラハン(Callahan)、ときて、ふと、ああ、そうそう、マクレーン(McClane)、でもってリッグス(Riggs)でマーフィ(Murphy)とか。ちょっと脇だけどマローン(Malone)もだな。で、ぽーんと飛んでコロンボ(Colunbo)思い出して、いきなり小説に飛んで(厳密にはここの括りに入れるのはどうかと思うものの)スカーペッタ(Scarpetta)ときて。

アメリカの警察関係者だとか刑事には Irish 系と Italian 系が多いんじゃなかったっけ、ということをふと思い出した(消防署員にも多いんだったか。現代で言うところの3K職業で、移民であった彼らがそれらの職に就いたとか何とか。アイルランド系のひとなんかは「アメリカの警察の基礎はオレたちが築いたんだ」と誇りを持って豪語するひともいるそうで)。
ちなみに、上にずらーっと並べた名前の典拠(?)は、順に "Darty Harry"、"Die Hard"、"Lethal Wepon"、"Robocop"(殉職して後にロボコップにされちゃうのがマーフィ)、"The Untouchables"(S・コネリーが演じていた役名ですね)に言うまでもなく「刑事コロンボ」シリィズで「検死官」シリィズ、と。邦題忘れたけど(って、調べたらわかった、「デッドフォール」だ↓)、"Tango & Cash" とかいう映画も、Tangoって刑事が登場するなあ(スタローンが演じてる。ただ、この映画の場合、スタローンが上等なスーツ着込んだちょっとキザでイヤミなカンジの刑事で、ライバルのキャッシュがワイルドでタフな刑事、その差異を端的に表すための命名でもあるかと。上品ぶった男故にタンゴ、ちょっと俗な男故にキャッシュ、とわかりやすい対比)。とりあえずイタリア系かどうかはわからないけど、……「アメリカの警官にはイタリアンとアイリッシュが多い」と言われたもんだから、するってえとタンゴ、もイタリア系かいな、と単純に思ってしまった。

で。「アメリカの警察って、アイリッシュとイタリアンが…」と、講義中、センセイは仰ったのでした。ちなみに「英米文学講読」の時間、テキストには"Tha Catcher in the Rye" を使用。主人公・ホールデンの名字、コールフィールド(Caulfield)がアイルランド系の名前であることを解説して下さった時に発展して出てきた話題。

「『ダーティ・ハリー』って映画、あるでしょ。ハリーの名字、知ってるひと、居る? キャラハン、なんていかにもアイリッシュの名前でしょ(「そうなのか!?」と当時は思った。名前で出身地がぱっとわかるほどの知識はない大学生であったところのワタシ…しつこく言いますが私は日本文学専攻で以下略)。で、アイリッシュ、って言ったら、一般的には『少々変わり者』っていう認識が持たれてる。ハリーは警察という組織から逸脱したところがあって、まあ簡単に言うと変わり者なところがあるわけだね。だからこそアイリッシュ系に設定した、とも言える。もっとも、アメリカの警察には……」
ときたわけです(長!)。

やはりその映画(とか小説とかえとせとら)がつくられた国や、物語の舞台背景・文化背景を知ってる方が色々楽しめるよね、と思った記憶がある(今ももちろんそう思う)。てなわけで、この本、ものごっつ欲しいです(しかし表紙が驚くほど…ダサい気がするのは私だけだきっとそうだうんそうだ)。
友達より深く楽しむ外国映画の歩き方
三笠 加奈子
4769608276


でもって、偶然見つけたコチラのサイトも興味深くて楽しい。アイルランド系、スコットランド系ほかのメジャーな名字の一覧が見られます。さらには、個人的にはこの新書も面白く読めました。ちょっとした事典的にも活用できるしでお買い得♪
人名の世界地図
21世紀研究会
4166601547

氏姓・名前には興味があるもので即買い!でした(しかし、これ、あまりつっこんでくと差別問題にぶち当たりかねないのがセツナイ……)。
ダーティハリー 特別版
クリント・イーストウッド ドン・シーゲル レニ・サントリ
B000232BHU

私のブログにたびたび登場していただいている某大学教員(やはりA先生、とでもお呼びしておこう。2004年9月20日12月6日7日付記事を御参照のこと)。
A先生は日本語学の、特に音声学的方面が専門でいらしたのだが、英語が堪能な方でもあった。少なくとも日常会話にはまったく困ることがなかったらしい。アメリカに出張した時だったか、どこぞのバーで飲んでいたら話しかけられ、「貴方、○○(アメリカ国内のどこか。ああ、思い出せない)から来たの?」と尋ねられたそうで、その訊き方からして日本人(あるいはアジア系)観光客、というよりも native そのものと見なされた模様。発音が native らしく聞こえる英語を話されるらしい(日本人だろうその土地に於いては stranger であろうとアメリカほてほて歩いてると道尋ねられることがあったりしませんか? ちなみに私は夏休み=アメリカでは新学期開始あたりにN.Y.に行き、さらにはコロンビア大に「観光で」行ってしまい、友人と2人「ちょっと疲れたね」、なんて庭に座って休憩してたら「ねえ、○○はどこ行けばわかるか知ってる?」と尋ねられ、「ごめんなさい、観光客だからわからないの」と答えるハメに陥った、という何とも恥ずかしい経験をしている。……ヒトサマがこれから学生の本分を全うせんとしている時に観光……↓ で、思ったのですが。「日本人なんだから、知ってるわけないじゃんよー」と私たちは思ってしまいがちなところがないでもないけれど、アチラはさすが人種のるつぼでサラダ・ボウルであと何だっけ、ある意味差別なく扱ってくれるのね、と妙な感心をしてしまいました。もし実は日本語しか話せないけれど、外見だけなら金髪碧眼なひとを見かけて、日本人は道を尋ねよう、と思うだろうか?)。
で、「日本人なのに」「日本語学専攻なのに」「英語が話せる」と、よくこう言われたそうな。

「あれだね、きっと耳がいいんだね!」。

御本人曰く、耳がいい(多分英語の発音等をよく/正しく聞き取れる、という意味、なんだろう)というのはちょっと違うと思う、とのこと。
仮にも彼は音声学を中心に学問の道を邁進されていた方である。この「聞き取った音を再現できるか否か」であろう故、「その音はどの調音点を使えば発音できるのか」がわかるために、所謂 native らしい発音で英語は話せた、と考えるべきではないか、と主張したかったのではないかと思われる(その教員は、「うーん、別に耳がいい、というのとは関係ないと思うんですがねえ」と少々コトバを濁して次の話題……講義内容に話が移ってしまったので、あくまでも私の予想)。
確かに、聞き取れない音は発音できないけれど、聞き取れたってそれをどう発音するかわかるか否か(そして実際できるかできないか)は少々別問題であるような気が……。そのあたり、どんなもんなんでしょう? 確かに私は「ばなな」と「う゛ぁにら」の違いを理解できなかった日本人のオンナノコたちを山ほど見てしまったわけだけれど(2004年11月13日付記事参照)、それとこれはまた違う問題、か。ううむ。
ちなみに、私も同じ言われ方をされたことがある。「耳がいいんだね、きっと」とか何とか。私は中学生の頃、英語をやれるのが嬉しくて嬉しくて、教材として任意で販売されたテエプをわざわざ購入して、それはもう何度も聴いて、 native っぽく聞こえるように練習していた時期がある。いやあ、嫌悪感だのニガテ意識だのが芽生えない、単純なガキでよかったねえ。
私が話す英語が「英語らしく」聞こえると思ってくれるひとが稀に居るのだが、そういう場合「その当時の練習のタマモノかしら♪」と思ってみたいんだけど、……ビミョ~~~~~~~(私自身は「テエプの発音と全然違う! 同じにならねーよー!」と日々嘆いていたのだが!・涙)。 

で。そのA先生が、「あまりクセのない英語で聞き取り易いですね。リスニングなんかにもいいと思いますよ。映画自体も楽しめるし」と薦められたのが、かのC・イーストウッド(の話す英語であり出演する映画)であった。
そうだったのか。以前よくTVで「ダーティ・ハリー」が放映されて、鑑賞はしたものの、吹替でばかり観ていたから、気づかなかったわ…(ちなみに、吹替版はルパンでお馴染み山田康雄氏ver.で。「泣けるぜ」なんつー台詞だとか、吹替は吹替なりに味わいがあって嫌いではない私。もっとも、それは声優さんの演技力だとか妙味が感じられたり、吹替で観るのがフツーだったりする状況の場合であって、映画館に観に行くなら字幕版を選ぶ。そもそも私が子供の頃って、TVに副音声切替なんて便利な機能はなかったし、未だにヴィデオ・デッキすら所有したことのない家と来てるし↓)。
いずれC・イーストウッド自身の声で "Make my day." を拝聴しなくては。

余談。イーストウッド観ると、亡くなった母方の祖父を思い出す。特にここ最近の年齢をより重ねた彼を観ると、まあ思い出す思い出す。ふとした表情とか、体型(若い頃は人力車夫として働いた経験もあるため、ガタイがいい。当時にしては背も高かった)とか、顔の皺のカンジだとか額の辺りとか(笑)、何とな~~く似ている、のだ。祖父も私同様純国産のハズなんだけれど、瞳がグレイで少々顔の彫りが深かったため、少しだけベタな日本人らしさに欠けているひとだったのでありました。さすがにTV観て「じーちゃん!」とか呼びかけたりはしないけど(ははは)。←なんつって、実は内心呼びかけてます(えっ…)。

Build Your Own Snow Globe (Mega Mini Kits)
Alison Trulock
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とにかく寒い。今年もまたドカ雪というやつで、毎日雪かきに追われている。雪は嫌いではないのだが、流石に辟易する。路上から除けた筈なのに、翌日はまたこんもりと積もっているのだ。あるいは、午前中に除雪したのなら午後に。昼にやったのなら夜に。また積もっている。

毎日毎日毎日、雪かきをするのが、そういう土地に生まれて育った者に与えられたやらねばならぬ労働だとはわかっていても、……疲れない、平気、などと言える程元気ではないのだ。くそう。

でも、降るのを眺めるだけなら、一日中でも構わない。

スノウ・ドオム。ひとつだけある。友人からの頂き物。それほど派手に降ってはくれないけれど、キラキラと瞬くのを眺めていると嬉しくなる。

外には本物の雪が、降っては積もり、してるんだけど。
  
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