冷めぬ熱、覚めぬ夢。

失う、ということ、手放す、ということ。

寿戦記
楠 桂
4420170255

若干15歳という若さでデビュウ(確か。間違ってたら申し訳ない)して以来今日まで(一応)第一線で活躍中の彼女が、今の御夫君と出会って結婚し、一女をもうけ幸せな(?)生活を営むまでを綴った本(何で「一応」か、というと、最近の作品はあまり読んでおらず、また、個人的にはかつてほど魅力を感じなくなってしまったから。絵も、かなりクセのあった昔の方が魅力的だったなあ。いい意味で少女まんがくささがなかったの。描線なんて劇画ちっくだったりして。醜いものも美しいものもそうとしか表現できないであろうカタチで描かれていた。今の絵は描線〈主線/おもせん、とも〉はなめらかで美しいし、それこそ上達なさったなあとは思うけれど、味わいとか魅力は感じなくなってしまった。どこにでもあるような絵、イマに受け容れられるんだろうね、という絵になってしまったのが何だか残念…。今の作風が好き、今の作風も好き、という方、申し訳ない)。友人が貸してくれて読んだ。

実は彼女の結婚に至るまでは少々波瀾万丈で、特に実母がすべてにおいて口出し(ダメ出し、とも・笑)してくるという、「ママの身体には緑色の血が流れているのかもしれない」と実の娘に言わしめるほどのある種の無理解ぶりと爆走ぶりを呈している。でも、そんなのは序の口。読んでいてつらかった段があって、しかもそれが未だに忘れられない(しかも、克服したとは言え、お子さんが難病にかかってしまったとか…うううう)。
彼女は授かった命を、自分も知らぬ間に失ってしまった、というのだ。雅子様も経験なさった「稽留流産」。「あの時にはすでに自分の中で命が失われていたのか…」と呆然とし、御夫君とともにひと目につかぬ山の中まで行って、車内で2人号泣なさったのだそうな。

望んでも生まれてきて欲しくても、この世に誕生することなく消える命がある。

楠さんはそれ以来、妊婦さんに気軽に「おめでとう」と言えなくなったそうな。「妊娠したからおめでとうなんじゃないんだ、無事に生まれてから初めて『おめでとう』なんだ」という主旨のことを記していらしたけれど、……考えさせられた。そうか。妊娠したからおめでとう、と単純に言えるものではないのか、と私も色々考えるようになってしまった。それでなくとも周囲は結婚だ妊娠だ出産だとおめでたいコトが続いている。そんな矢先、友人から「妊娠してることがわかりました」というメエルをもらった。

私は、何て言っていいのか、わからなかった。

すでに安定期に入った、とか、順調に成長している、異状もない、そういうことがはっきりしている状態であれば「おめでとう! 元気な赤ちゃんが生まれるといいね!」と言えただろう。しかし、まだわかった、という段階。私は悩みに悩んで、……返信を出せなかった。
そうこうしているうちに、友人が「流産した」という悲しい知らせをメエルにして教えてくれたのだった……。

欲しくて授かった命だったからこそ、彼女は生みたかったと思う。生まれてきてくれてありがとう、と喜びと幸せに満たされたかったと思う。それだけに、「失う」ということがどれほど重く感じられたことだろうかと思うと、何と言っていいかわからなかった。
言えばよかったのかもしれない。彼女は喜んでいたのだし、実際、生まれてくることこそ適わなかったけれど、確かに新しい命が宿ったんだから。それを彼女は喜んでいたんだから。
「おめでとう、よかったね」と、言ってあげればよかった。後先のことを、私はヘンに考えすぎてしまったのかもしれない。

また新しい命を授かったとしても、その子は「失った」子と同じ子供ではない(当然だけど)。どちらの子供も、どちらかの「代わり」ではない。それぞれがそれぞれの人生と命を生きてゆく存在だから、失った子の「代わり」ではないし、もういない子供はそれ以上の人生を歩むことはできない。……なんて残酷なんだろう。

それに比べると、知人の場合は何ともドライであった。そういう風にあえて振る舞っていたのかもしれないけれど。
「実はさ、まだ○○さんにしか話してないんだけど、妊娠したんだー」
仕事が始まる前、まだ誰も居なかった休憩室で彼女は言った。敢えて私は「あ、じゃあ新たに結婚なさるとか?」と尋ねた。婚外子ですか、とは言えないし、若くして離婚経験者である彼女に「お父さんは?」とも訊けず(仕事仲間であってとても親しい友人、という訳でもなかったので…)、ブナンかつわざと古くさい概念で返してみたのだが。
「ううん。堕ろすつもり」
サラリ、とそのことばは唇から流れてきた。「堕ろす」。
「それはまたどうして?」
「この状態で産んでも奇形児産まれる可能性大だし、それ以前に仕事でそれどころじゃないしね」
……私はこの時も何とも言えぬ気分になり、ことばを失った。
「そうですか、……残念ですね……」
「欲しかった時(前の結婚生活では欲しくても授からなかった、とのこと)は駄目だったのに、産んでる場合じゃない状態の今できちゃうなんてねー」
……いや、それは、自分も主体的にちゃんとすべきだったのではないのかと。「避妊」という大事な行為を。出来るかもしれない可能性がゼロだと言うならまだしも、……防げたことではないのか?(もちろん、100%確実な避妊法なんてないだろうし、……究極「しない」こと以外「絶対出来ない」という状況に持っていけないのだろうが)
「ホントに欲しいって思った『次(のチャンス)』に出来るか心配だなあ」
……もう何も言えなかった。今宿った命より、「次」なのか……。今自らの意志で堕胎する子供よりも、「いつか来る未来」に授かるかもしれない「次」が大切なのか、……。「今宿った命」は「望まれなかった」ものなのだろうか。
私は彼女ではないから、本当のキモチとやらなんてわからない。ただ、今自分で亡きものにしようとしている「命」よりも「次」に思いを馳せていることが理解できなかった。もちろん、彼女なりにとてもつらかっただろうとは思うだけれど。

望んでも生まれた子供の顔を見ることができなかった友人。自分で生まないと決めて堕胎し、「次」は大丈夫だろうかと心配する知人。自分には「子供が欲しい」「産みたい」というキモチがないので、どこまでも彼女たちの「本当の気持ち」を理解してあげることなんてできないのだなあ、と思うと、ふと申し訳なさと寂しさを感じた。

生まれてくるすべての子供は「しあわせになるために」生まれてくるんだ、と思いたい。生まれてくることの適わなかった子供には、その子なりのしあわせがあったんだ、とも。出逢うこと、成長する様を見届けたいと真剣に願われたこと、すべてのことを待ち望まれていただけで、しあわせだったんだと、思いたい。
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