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2005-09-17 Sat 23:01
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「お母さんはね、……」「お母さんの言うことを、……」
母の口から聞いたことがない。 「あたし」。彼女の一人称が「お母さん」だったことはない。それでも私の母だという事実は変わらない。 「おかあさん」と殊更に名乗らない母を、私は敬愛している。この世でもっとも「美しい」おんなのひとりだと信じて疑っていない。とはいえ、さすがに彼女も年齢を重ねたのだな、としみじみ思うことがある。 歳を重ねると、人間、少々脆くなる。こころも、からだも。昔は凛とした、芯の通ったおんなに見えた。 彼女は「教員のクセに」、明るい色合いのコオト(タアコイズ・ブルウ乃至セルリアン・ブルウ!)を来たり、所謂「ファッショナブルな格好」で出歩いた。教師たるもの、地味でなくてはいかん、ハデに着飾るものではない、という風潮が強かった頃でも、平然としていたという(おかげで、夜の街を徘徊している、だとか色々噂が流れた「伝説の女」だったらしい。同僚男性陣にとっては近づき難いオンナだったようだ)。 授業中にこっそり飴やガムを食べる子供を見つければ 「みんなに配れる分持ってるの? 持ってないでしょ? 見てたら回りだって食べたくなる。だから、今は食べるのやめなさい。あとで食べて」 と注意する。 息子が思春期を迎え、煙草をフカしたいオトシゴロになった時 「アンタ。吸うな、って言ったって吸いたいものはどうにもならないでしょう。だから、吸うな、とは言わないけれど、ひと目につく所ではやめなさい」 とだけ言った。兄はよく自分の部屋で煙草を吸っていた。高校生の頃。 強くて泣き言を言わないおんなだと思っていた。でも、私が長じるにつれ、愚痴を耳にすることが多くなった。 今は、……少しさびしげなひとに見える。 私もそれだけトシを食ったってことなんだろう。 …………………………………………………………………………………… 以前、スペアリブを食う時、いかにみっともなく食べてしまうかについて語ったことがある。その時、もらったコメントにこんなものがあった。 「女性がガツガツ食べるのを見るのは気持ちがいい」 とか何とか。私は吃驚した。 そのコメントを下さった方とは何らの面識もない。親しくないどころか、コトバを交わしたこともないどころか、まったくの他人なのである。彼のフランクさ? 違うね。距離感の取り方(在り方に対する考え方)とコトバに対する考え方の違い。多分。 彼は私より若いひとだったけれど、自他共に認める(と思しき記述が多々あった)英語に堪能なひとで、そこはとても素晴らしいと思っていたけれど、何とも自意識過剰なところも垣間見えて、内心「ははは、大言壮語は若さの特権だね」と思ってはいた。まあそれはいいとして。 せめて「ばくばく」とか「ぱくぱく」と言え。お前、どんだけ英語出来たって、日本語が母語だろう。ニュアンスの違いが印象やその後の関係性を左右するんだぞ。 「がつがつ」で伝わるのは私にしてみれば「卑しさ」だ。欠食児童よろしくようやくありついた食べ物を他者に奪われまいと必死で頬張るようなシーンが脳裏を過ぎる。その時は一種の好意を示すとともに、軽い感覚で言ったのであろうし、漠然と女性全般を指したのであろうが、彼は私の書いた文章を元に述べたのであるから、漠然としているのと同時に、私個人のことを指してもいるわけで、つまりは「アンタはイヤシイ」と言われたも同然の気分なのだ。ああ、そりゃイヤシイだろうさ。理不尽な怒りなのだろうが、「私に対して少々シツレイではなくて? お若い方」、と思ったのであった。書いた私も誇張して書いたのだから、それに合わせただけで、あくまでも「ノリ」で書いただけなのかもしれないけれども。 面識のある、親しい、ジョークのわかる間柄でならば、それはアリなのだが、如何せん私は彼の何をも知らない。何らの関係性もなく、その時ようやく生まれたようなものなのだ。そういう人間から「ガツガツ食う」などと言われたくない。もっとも、密度の濃い人間関係が築けてしまうソコでは私はそのことについて語らなかった。 とりあえず、キミはね。某有名アーティストの上を行く人間だ、と胸張って言う前に、同じ土俵に立って、彼を実際に越えてからお言い。誰もがそうだとわかる姿をお見せ。「越えた」と思うのは勝手だけれどね。自信と思い上がりは違うのよ。英語では同じコトバなの? だとしたら「その」英語はアナタ向きの言語でしょうね。私は違う英語を学ぶことにする。 …………………………………………………………………………………… 前に某通販会社で「年間予約」なるものをやっていた。1年12ヶ月、テエマに沿って色々なものが届く、という企画で、デザインは選べない。もっとも、ある程度ラインナップは事前に公表されているので、コレが届くのかあ、とかコレは別に来なくても平気だなあ、とか、色々を期待を膨らませて待つことになる。 ふだん利用していた紅茶専門店のオーナーさんがデザインを担当する紅茶雑貨を購入できる会を申し込んでいた。友人も同じコオスを選択し、それぞれにズレて届くため、先に届いた方に「ねえ、今月何が届いた?」などと尋ね合う。 ある時、友人からメエルがあって「もう私には届いたよ」と言う。「何が来たの?」と尋ねたら、友人は楽しみのすべてを奪ってはいけない、と気遣ってくれたのか、こう言った(大抵は同じ商品が同じ月に届いていた)。 「うーん。紫堂さんには必要ないもの」。 私は考えた。ラインナップを思い出しながら、比較的アッサリと友人の元に何が届いたかわかってしまった。 友人の手元に届いたのはクッキィの抜き型とそれを収納するための缶(後日たちゃんと私にも届いた)。 私は料理がとてもとても上手、という人間ではない。最低限の最低限をどうにか、という程度だ(魚をサバくのは上手くない…)。所謂お菓子づくりはしたことがない(クラブ活動ではやったけれど)。オーヴンもなかったし、腕もなかった。友人はそれを知っている。 つまり。 「紫堂さん料理ヘタだししないから、必要ないでしょ?」 と言ったように思えた訳だ。料理が出来る出来ないに関して、私には劣等感がある。上手い・下手は関係なく、やって当たり前、という行為だと思っていたので(「食う」という行為は生きてくために必要なことなので、まるっきり他人の手に頼らなければ食事もできない、というのはよろしくないのではないか、と思っている。むろん、ひとそれぞれなので、「出来なくても今は便利なもんで、出来合いでも美味しいのあるからそれで十分よ、忙しいし」と思うひとがいてもそれはそれだし、「つくってくれるひとが居るから♪」でもそれはそれだと思っている。ただし、その「他者」を失った時誰を頼れるのかを思えば、私には「頼り切る」ことは出来ない行為、なのだ。まあ自分で出来るに越したことはないし)、あまりしない、という事実も如何なものか、と思っていたし、できないでしょ、しないでしょ、どうせと言われるのも何だか悲しかった。ついでに言うなら、お菓子づくり、なんて「可愛らしい」コトとも無縁でしょ、と言われた気分にもなった。 事実はいちばん刺さる。どんな時でも。 …………………………………………………………………………………… 日常の会話、というものを、私はいつも耳をそばだてるようにして聞く。そのひと自身が見えてくるからだ。ふだんどんな風に何を考えているか、鎧っても隠そうとしても隠せぬ、綻びのようなものが、本人も意識していない状態で出てくる。本当はワタシをどんな風に見て思っているのか、口では言わない何かを別な事象を語る時にひょい、と漏らしてくれた「友人」を何人も見てきた。 単にコトバの遣い方を知らない、という場合も往々にしてあるのだが、大抵は自分を優位に見ているのが判ってしまったり、ワタシを見下している部分があることが露呈されたりするのだった。いや、バレるもんですって。実際そう思ってるなら。多分、中には巧みに何気ない方法で敢えて言ってるヤツ、というのが存在している、とも思う。 人間、「本当に」言いたくないこと・秘めておきたいこと、は寝ている時でも絶対に言わない、と本で読んだことがある。つまり、うっかりだろうが口をついて出てくるということは、「言いたい」気持ちがドコカにあるから、だろう(よって、当時とは医療に関する情報や知識の違いがあるとは言え、泉鏡花の「外科室」は色々な解釈ができて何とも興味深く、またその解釈故に作品の持つエロティシズムの幅や奥行きが広がる佳品なのであった)。 =============================== ひとつ忠告。こういう人間は友人に持たない方がいい(笑)。疲労の元だ。フランクかつ深く考えることなどしない、気むずかしいところなどカケラもない砂糖菓子のようなひとを見つけることをオススメする。 |
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| 拠火園雑録 |
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