拠火園雑録

緑ノ指デ、描ク庭。

簡単に踏みにじるの?

コーヒー&エスプレッソの技術教本―抽出・バリエーション・焙煎
旭屋出版「喫茶&スナック」編集部
4751102141

彼女はずっとひとりで切り盛りしてきた。確かにヘルプが入ることもあるし、でもそれは基本的には彼女が休みの日に入れるひとが居ないと困る、という単純な理由が発端の筈だ。まだこぢんまりしていて、客数も座れるテエブル数も限られていた頃は、ひとりでどうにでも出来た。どうしても忙しくて手が回りそうにない時だけ、助っ人の要請をした。何だってひとりでやってきたのだ。
仕入れ。接客。調理。珈琲がウリのひとつでもあるから、焙煎も彼女の仕事である。ソフトクリィムなども饗しているので、そのマシンの洗浄作業だってやってきた。開店前の掃除、閉店後の経理会計、後片付け。

自分だから出来たんだ、という自負がある。休みだって必要なら返上してきた。お陰で繰り越し分が何日もある。焙煎のためだけに出勤し、帰宅したことだってザラだ。客が混めば帰宅時間も押してしまい、遅くなる。
それでも、私が責任者なんだから、と頑張ってきた。

そういう人間から、いきなり仕事を取り上げて、異動をかける会社の、上層部の考え方が、信じられない。
どうしてそうも簡単に、ひとのプライドを踏みにじれるものなのだろうか。

――私が勤める店の喫茶部で働くTさんに、いきなり異動の指示が下った。本人も驚いたが、小耳に挟んでしまった私も驚愕した。

理由は、実は、聞くまでもなく判っていた。

彼女はいわば即戦力、なのだ。喫茶が担当ではある。だが、先輩たちの働きぶりを見てきたために、仕事の進め方や段取りの付け方を理解しているし、手伝ってもきたので作業を手伝える。おまけに指示を的確に出せるし、仕事も速い。……だから、そういう意味では驚くに値しない。ただ、彼女はあくまでも「喫茶担当である」ということに自負を抱いていたのだし、好きだから休みすらも返上して頑張ってきたのだ。

結局の所、自分たちがやらずに済むから、ということなのだろう。常務も部長も自分たちがいちいち何でも教えてやらねばならないという現実から逃げたいだけにしか、私には思えなかった。事実それは面倒である。けれど、やるのは義務だ。上役だから、というだけでなく、先に歩く人間が後から来る人間に既知のことを教えてやるのは、どういった場であろうと「義務」だと私は思う。
学校で、上級生が下級生に教えるのも。教員が生徒に教えるのも。会社で、先輩が後輩に教えるのも。上司が部下に教えるのも。
確かに、何でもかんでもやるハメになって、辛いのは判る。だからと言って、いきなりそれを自分以外の誰かに押しつけて、逃亡を謀るというのは、「正しい」ことなのか?

「あたしは、喫茶だから、頑張ってきたのに」。

Tさんは繰り返す。自分がこれまで如何に尽力してきたかが、おそらく脳裏に駆けめぐっているのだろう。当然だ。それを捨てて、別な仕事をしろ、と一方的に、それも決定事項として突きつけられたのだ。

教えてくれたマスタアからのレシピだって、自分なりに改良してきた。彼女の鍋振りは見事なもので、確かにほかの人間がつくったものより美味である(鍋振りによって、空気をより含み強火で調理された料理は、ちんたら家庭用のコンロで調理するものよりも断然美味しい。当然だろうが)。コトバ云々よりも身体で憶えている。だから、正直に言えば、教えるのはあまり上手くない。見て憶えてね、とも言う。「そういうもんよ」と笑って。

この話をすると、私の知人友人、家族に至るまで口を揃えて同じことを言った。
「どうして其処まで従業員を粗末に出来るの?」

「オレが居ないとこの会社は全く駄目なんだよな。頑張ってるのはオレだけだよ」
そういう台詞をタダ飯喰らいながら得意げに株主に話す莫迦が社長だからだと思うよ、と吐き捨てるように言うと、皆黙って納得する。

Tさんは「これから、喫茶、どうなるんだろう」ということばと、「もう担当じゃないからどうでもいいけどね」ということばを交互に口にする。
それが彼女の心境をもっとも顕著に物語っていると思う。

「もう限界かな。あたしも辞めること、考えるわ」。

5年も努力を惜しまなかった彼女に、そんな台詞を言わせるのは、誰なんだろう。彼女の側で、彼女から教わったやり方で、珈琲を立てながら考えてしまう。
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