拠火園雑録

あの空に、この手が届くなら。

 
2006年05月17日

鍵のかかった抽斗。

抽斗があって、ナカミもある筈だけれど、それを取り出すことだけは叶わない。その抽斗のナカミの持ち主は、抽斗が在ること自体も忘れ去っている。開けられることのないまま、在り続ける抽斗。それは「在る」と言えるのか。存在する、と認識されなくなったそれはいずれ「無い」ものになってしまう。
少なくとも、「無いモノ」と思われ、「無い」という事実すらも忘れ去られてしまう。

母の病室には入れ替わり立ち替わり入院患者が訪れては去ってゆく。どういう訳か大抵はやかましいおばさま、緊急手術を要するおばあさま、なのであるが、昨日新たに入院することになったばあちゃん、は、どうも認知症を患ってもいるらしきことが伺えた。
何度説明しても単純なことが理解出来ない。ほんの少し前のことをすっかり忘れている。同じ話を繰り返す。昔の記憶は所々鮮明である。

手術を無事に終えたはいいけれど、付き添いの女性がほんの少し目を離した隙に、動かしてはいけないと繰り返し言われているのに、切開した患部を思い切り動かしてしまう。動いてはいけないのにも関わらず、ベッドから降りようとさえしてしまう。通常はそうして平然と動けるのに、いざ医者や看護士が少しでも触れれば「痛い痛い」と大袈裟に騒ぐ始末。
付き添いの女性も「○○へ行って来るので、その間少し見ていて欲しい」とか何とか言って去ればいいものを、何も言わずに消えてしまい、その間にもばあちゃんは好き放題して、極端に言えば危険に晒されている。自分で自分を律することが困難な状態のヒトなのだから、自分の意志でやったのだとしてもそう言わざるを得ない。
どんなに私たちがコトバで止めようとしても、ばあちゃんには届かないのだ。かといって力ずくで止めることも躊躇われる。私たち付き添い人・面会人は、見舞うため世話をするために来ているだけであるし、何処がどうどのように悪いのか痛めているのか、一切知らないために、ヘタに手を出すことが出来ないのだ。看護士たちは一様に忙しいため、呼んだとて即座には来られない。

伝え聞いた所に因れば、その付き添いの女性は息子の妻、つまり嫁なのだそうで。……ややばあちゃんの扱いっぷりがぞんざい(?)なのはそのせいなのだろうか、とふと思ったりする。肉親の介護・付き添いでも辛い。投げ出したくなるひとが居ても無理ないな、と思う(かといって本当に投げ出してはいかん、とも思うけれども、やってる当人は本気で辛いと思う)。

記憶は消えてしまうのではなくて、取り出せない状態になる、のではなかったか。ばあちゃんのアタマの中には何時何があってどうだったか、ちゃんとあるのだろう、多分。けれど、それを取り出して見ることが出来ない、そういう状態なのだろう、多分。
指示や忠告を聞くことは出来ても、理解・納得・実行するための回路が何処かで断線している、そんな感じなのだろう、多分。
そう思うと妙にせつない。
もっとも、同室で過ごす限りにおいては、正直はらはらさせられっぱなしだったり、朝と夜の逆転のせいで眠れなかったりするために疲れてしまったり、と閉口してしまうのも事実なのだが(夜間ずーっと喋り続けたために、他所へとベッドごと運ばれていったとのこと)。

開けられなくなった抽斗にも、ばあちゃんにとって大切なものが沢山詰まっていただろうに。「無いもの」になるのか。「無いもの」になってしまった、という認識すらされない存在になるのか。

本当の意味で失った訳ではないのに、もうそれを思い出すことは出来ない。あるいはふいに思い出すのかもしれない。でも思い出せた、という事実すらもまた抽斗の奥底に……とか、そんなことをぐるぐる考えてしまう。












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