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スタジオジブリ・プロデュース 「ゲド戦記歌集」
手嶌葵 宮崎吾朗 塩谷哲
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「ゲド戦記」。困ったな。これ、最初の物語がゲドの若き日の物語だったし、確かに重要人物でもあるから、日本におけるシリィズ名として冠されたのだとは思うんだが。この映画では、ゲド自身が主人公ではなく、エンラッドの王子・アレンがメインを張る物語なので、まずタイトルに違和感アリ。 "Tales from Earthsea" という映画における副題が「ゲド戦記外伝」の原題とのことで、あくまでも「ゲド」(というよりも「アースシー」)の世界観の中で起こる、そもそもの登場人物も絡む別な物語、と捉えるべきんなのだろう。事実、まったく異なる訳でもないものの、まったく同じ(これはメディアが異なった時点で避けられない点だけれど)ものでもない。加えて、原作は「ゲド戦記」、「原案」は「シュナの旅」(=宮崎駿氏の20年以上前に描き下ろしで刊行された絵物語)とある。確かに「シュナ…」は「ゲド」に触発されて描いたものであるが、……えーと?

率直に言うと、原作未読で良かったのかもね、といった所であった(私はガイドラインくらいしか知らない。本のタイトルとかそういうのだけ知ってる、というのがほとんどなのだ)。原作ファンの目にはどう映る作品なのであろうか。おまけに、原作者の公式コメントの内容が内容である。

物語そのものについては、王子アレンがいきなり父王を殺害するのだが、その理由がまったく提示されない。何となく、彼を覆う「影」の存在がそうさせた、と匂わせる程度。でも、その影は何を思ってのことなのか、が一切語られず触れられないので観ている側はひたすら「?」なのだ(あーだこーだ解釈出来る、という意味においては興味深いが)。逃げ出し彷徨う彼がハイタカ(ゲド)と邂逅し、その後……と物語は続いてゆくのだが、やや流れが緩慢で参ってしまった。それでいて妙に暴力的シーンやそれに付随する描写はちゃんと描かれる(アレンとゲドが農地を耕すシーンてのもあって、それはそれでいいんだけど。「世界の均衡が崩れつつある」という中で地道に、かつ地に足のついたことをしている大切なシーンだし。しかし、「世界の均衡が崩れ何もかもがおかしくなる」=暴力という訳でもないし、……)。うーん……。
とっても分かり易く、かつ安易に考えるならば、父王殺害は吾朗氏による駿氏の殺害であろう。物語早々、イイカンジに宣戦布告というか「やると引き受けたからにはやるんじゃ!」という意気込みにも見えなくもない。って、……ベタだな(笑)。本当に殺したい、では無論なく、偉大過ぎる(ある意味そうだろう。ひとによっては大したことのないおっちゃんなのだとしても)その存在に押しつぶされるのが怖い、とかその存在を乗り越えたい、という気持ちのようなものの具現化かな、と。ああ、ベッタベタだのう。

それと、長年ジブリ作品を見続けていると、絵のクオリティの進歩を目の当たりにしているため「こんなもんだったか? ジブリのチカラって」と思うことしばしばであった。冒頭で観た海のシーンにしても、海面の表現が平坦でのっぺりとしており、躍動感や動き、あるいは美しさや荒々しさが伝わってこない。通常のTVアニメでもう少ししっかり描写してないか? などと思ってしまった。
もっとも、なるべく平易に、きらきらしく描くことだけは避けようと思った結果であるならば致し方ないのかもしれない(うっかり宮さんが「ゲド」の世界には○○という画家の絵が合う」みたいなことを言ってしまったとかパンフにあったような。で、その絵を参考にしたらしい)。微に入り細に入りこだわりぬいて描くことに慣れた目にはどうにもアッサリし過ぎて見えた(「千と千尋」や「ハウル」における過剰なまでの、特に背景における描き込みっぷりや「もののけ姫」の綿密な取材と確かな画力で描かれたそれらを知った目には何ともサビシイ絵面であった)。それでいて登場する竜の姿はなかなかに細やかな描写をされている。そのギャップが違和感をもたらすのかもしれない、と思うことにする。空を飛ぶ/翔けることに対してコダワリのある宮さん(あ、宮崎駿監督のことです)ならばリテイク(要は描き直し)出しまくりではないか、と思うくらいあっさりのぺーっとした雲や空の表情もまた何とも言えず。あくまでも吾郎監督の作品だから仕方ないか(パンフでは雲の描き方が云々と「良い面」について言及されていたが)。
ゴテゴテキラキラしていればいい、というものではない。そういう意味ではなく、これまでは風に煽られる髪のうねり、人々の表情、街の表情と空気、木々の葉の重なり、空の色草の色、水の輝き、そういうものを細やかさで表現していたように思えるのだ。それに対して、ある種簡略化されて描かれた人物や衣服の皺等が意図的であったにしてもちょっと目にサビシイのだ。
あれほど簡素かつ古びたサツキとメイの家ですら、私たちの多くはアコガレを抱いたではないか。あの古び具合やら部屋に生まれる陰翳やらに何とも言えぬ情緒を感じて「ああ、いいなあ」と思ったのだ。今回は絵的には、どの場面においても、そういう浸りたくなるような何か、を感じなかったのであった。テナーの、動きどころか筋ひとつ入るでもない束ねられた髪なんて、がっかりしちゃったよ……。

CM等のおかげですっかり耳慣れた手嶌さんの歌は、まったくのアカペラで聴けて、素朴な異国の民謡のようで美しかったし(個人的には作曲した谷山浩子だって大好きなのだ)、EDに至っては私の歌姫・新居昭乃嬢の作詞作曲ということもあり観る前から期待していたが良かったVv(ただし、純然たる彼女の詞ではなく、吾朗氏との共作であるためか、彼女があまり書かないようなフレエズやことば遣いになっていて、まあある意味新鮮であった。……正直言うと、朴訥さが出過ぎていて、洗練された雰囲気には欠ける、と思う。ある意味そこがいいのかもしれないけれど)。さらには、演技も声優としては初なのに、不自然さがなくてイイカンジに思えた。テルーというキャラクタアにも合っていたのだと思う。

思えば声優陣は何だか妙に豪華だった。専業の声優さんはほとんど居なかったような。俳優さんたちが皆ハマっていて観ていて違和感はなかった(これも原作を知らないから、かもしれない)。

少々長さを感じさせる流れの緩やかさと、原作の持つ力強さや作者の意図だとかを意識しなければ、これはこれでそれなりに楽しめる作品だった、と思う。でも、もう一度、というか何度でも繰り返し観たくなるか、というと、今のところそういう気持ちは起こらないようである。
  
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もう少し先へ 映画『ゲド戦記』
 あまりの雑音のため、うっかりすると見逃しかねないところでしたが、ちゃんと自分の目で確かめてよかった。宮崎吾朗版『ゲド戦記』は、傑作ではないにせよ、読みどころがあって、普通に楽しめる作品でした。作品に対する賛否はともかく、日本国内で、2006年夏の最大の話題
海から始まる!?│08/31 19:04
     
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