何故、その日たまたま。
その方を、ひととして好意を持てることはないだろう、と思っていた。実際、あまり持てなかった。悪いひとではなかったのだが、苦手なタイプだった。
その日は、ひどく忙しくて、終始何かしらしていて動き回っていた。愚痴りたい気分で、口もよく動いてはいた。でも、やはり疲れていたのか、注意力が散漫だったらしく、滅多にやらかさないことをしでかしてしまった。
携帯を、会社に忘れてきた。……何やってんだか。
しかも、気づいたのは帰宅してから。帰る前に気づけばどうにかなったものを。でも、忙しくてそれどころではなかった。準備や後片付け、諸々がまとわりつくように離れない。疲れ切って帰宅して、出社が明日から3日間早まることを考えつつうんざりしながら就寝……したものの、あまりに睡眠時間が短いのが気になって(最近は2時就寝・7時起床が定着していて、その2時就寝が3時にズレ込むこともままあるために、次第にボロボロになってきている。得に肌が汚くなってきて悲しい…)、よく眠れない。かといって睡眠導入剤を飲む訳にもいかず(下手に飲むと眠気を引きずってしまう)。おまけに、昨日の帰宅時間は12時(そう、深夜0時。故にすでに翌日……)。もう何をする気力もないけれど、シャワーだけは浴びる。
とにかく疲れ切っていた。そのまま出社。携帯をようやく取り戻す。どういう訳か着信記録がある。……母か? 一応その場ですぐ留守電を聞いてみたものの、どうにも声が控えめ過ぎてよく聞こえない――暴風雨のために、屋根を打ち付ける音が酷くて、余程静穏な場所でないと聞こえないくらいの躊躇いがちな声だった。母だろうか? でも急ぎならまた電話があるだろう。とにかく忙しくなることだけは明確だったので、休憩時間があればその時にでも、と流してしまった。
多忙な中、ようやく携帯を確認出来るチャンスが来た。昼食のために用意したおにぎりをバッグから取り出しつつ、改めて携帯を見ると、着信履歴が増えており、メエルまで受信している。ちゃんと確認していなかったのでこの時気づいた。電話の着信は昨夜の11時台ではないか。
以前お世話になった方が、昨夜遅くに他界された、という知らせだった。
短い休憩時間、呆然として動けなくなった。ただぼんやりと携帯を眺めていた。
「紫堂さーん、どうした? 今日は休憩あんまりゆっくり出来ないから早めに食べた方がいいよー」
同僚にして先輩に声をかけられる。
「あ、はい。そっか。そうですよね。いや、今、以前お世話になった方が亡くなった、って連絡もらっちゃって」
まるで何でもないことのように答えている自分。おにぎりの包装をぺりり、と剥がしつつ、ペット・ボトルに詰めてきたお茶の蓋を開ける。
「あー、それ、厳しいね。オレも6月にじーさん、つい最近オヤジ逝っちゃったからなー」
「そうですよね。って、御祖父様までですか? ……それ、大変でしたね。気持ちが休まらないですもんね」
「いや、仕事してる間はさ、集中しちゃってるから。考えないんだけど。終わった後、どっと来んだなー」
「なるほど……判る気がします」
おにぎりを頬張る。同僚はバックヤアドに消えた。食べる。咀嚼する。お茶を時々口に含んで、やや流し込むように。携帯を再度確認する。メエルを読み、留守電を聞く。また食べる。飲む。……どういう訳か、涙が零れてきた。
何だよ。憎まれっ子世に憚るを地で行く長生きすんじゃねえのかよ。何突然死んでくれてんだよ。
毒づいていたら涙が止まらなくなった。数メートル先はやや客でごった返して活気づいている。なのに、自分の回りだけ音も何も無い。
おかしいな。私はそのひとに、それほど好意を持ってはいなかった。接触を極力避けていたし、会うのが苦痛なことも多かった。
私は、どうしてそんなに泣いてるんだろう?
馬鹿みたいに泣きながら、ばくばくとおにぎりを食べてお茶を飲んだ。知らせをくれた友人に返信をしつつ、もうじき休憩時間が終わることを確認し、顔を拭く。
やはり、知っている誰かの突然の他界、というのは受け止めるのが辛いものだったらしい。困ったことや不快に思ったことも多々あったのに、ぽろぽろと思い出すのは初めて会った時にみんなで一緒にごはんを御馳走になったこととか、そんなことだった。
仕事に戻る。確かに、忙殺されている間は、あまり考えない。多分また帰りは遅くなる。弔電打たないといけないし、御香典のことも友人に託すことにして、ええと、あとどうすればいいんだっけ? すでに仕事が終わった後も、他部署のヘルプに入ることになり、黙々と作業しながら考えていた。
身近だったひとが居なくなる。誰だって何時か死ぬのに、すんなりと受け容れられないのは、多分この先も変わらないと思う。
何で昨日に限って携帯を忘れたんだろう? よりによって職場がもっとも忙しい時期で、そのために大事なことを疎かにしてる自分が厭だった。でも、身動き取れないまま。
先生。厭な、懐かない教え子だったのに、思えば見放すこともなく、結構なにくれとなく目をかけてくれてたことを今更思い出してる。
もっと長生きして欲しかった。それは嘘じゃない。
